主があなたがたのために戦われるのだ。あなたがたは、ただ黙っていなさい。
出エジプト記 14:14
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教会の礼拝もすっかりYouTubeでの動画視聴スタイルになり、しばらく子ども向けの日曜学校は休校していた。
しかし、子どもたちがみことばに触れる場が絶たれるのは辛い。なんとかして場を提供したいとの思いで、少し前からZoomで行なうことにしている。
教師役の大人が週ごとに持ち回りでメッセージを担当する。先週末は、ちょうど私の出番で、モーセがエジプトを脱出する、いわゆる「過ぎ越し」の場面を語った。
傷のない子羊の血を門に塗ることでイスラエル人が災いから逃れることができたのと同じように、罪のないイエスキリストが十字架で流された血によって私たちは救われている。
この真理、子どもには難しいが、ゆっくり丁寧に話したから、小学校上級生は理解してくれたかもしれない。
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そんな出エジプトであるが、脱出のときは、昼は雲の柱が、夜は火の柱がイスラエル人を導き、彼らは沸き立っていた。
なにせ430年ぶりに解放されたのだ。喜ばない訳がない。
しかし、脱出した彼らをエジプト軍が猛追してきた。恐れ慄いたイスラエル人はモーセに詰め寄る。
「荒野で死なせるために、あなたはわれわれを連れて来たのか。われわれをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということをしてくれたのだ!」
私がモーセだったら、どう思うだろう。神に仕え、同胞のために命を賭けてここまで率いてきたのに、何ということを言ってくれるのか!と激怒したに違いない。
それに対してモーセが答えたのが、今日の聖句である。
文字だけではモーセの様子が伝わってこない。諭すように言ったのか、叫んだのか。状況から想像すると叫んだと思う。民の混乱を抑えつつ、神への信頼を取り戻させねばならないと強い使命感を持っただろうから。
戦うのは主であるー!と。
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このときのイスラエルの民の狼狽やモーセへの詰問を、私たちは責められない。
私たちも、思うようにいかないとき、すぐ誰かのせいにしてしまう。誰かならまだマシかもしれない。私たちは神のせいにさえするのだ。
想定していなかった大きな失敗をしたとき。あまりに大きな失望を味わったとき。失意のどん底に陥ったとき。神さまどうして…と愚痴ったり、恨んだり、責任転嫁したりする。
違うのだ。
神さまが戦っておられるのだ。
私たちは黙っていること。黙るとは、単に喋らないとか騒がないということではない。静まっている、ということである。
静まるとは、黙想すること。黙想するとは、神を感じて信仰を強く持つこと。心を閉ざすのではなく、開くこと。殻に閉じこもるのではなく、こだわりを捨てて解き放つこと。
神が戦う。私たちは静まる。