聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

聖さを求める

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すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

へブル人への手紙 12:14
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聖句の前半に「平和を追い求める」とある。

これに異を唱える人はいないだろう。誰しも世界は平和であってほしいし、隣人との関係も平和でありたいと願うだろう。

しかし現実はそうはいかないことも分かっている。

クリスマスシーズンなので、イザヤ書のメシア預言を引用すると…

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
(イザヤ9:6)

私たちは平和の君である主イエスが再びこの世に来られることを待ち望んでいる。

平和ではない世の中であっても、いや、だからこそ平和を追い求めることが私たちには必要だ。

しかし、今わたしは「平和を追い求める」の次に書いてある「聖さを追い求める」ことの方に強く導かれている。

聖さは「きよさ」と読むわけだが、音で「きよさ」と聞くと「清さ」を思い浮かべるのが普通だろう。

特に日本の場合、清潔さを極めて重視する民族性がある。清貧は美徳であるし、穢れから身を清めるとか、清廉潔白なんて表現もある。

だから、清さを追い求めることは、日本人にとっては取るに足らない、ごく自然なことだと思う。

けれど「清さ」ではなく「聖さ」となると、話が違ってくる。

神社で手を洗ったり、塩を盛ったりするのとは違う。

聖書が言う「聖さ」とは「区別する・隔てる」という意味がある。

エスツァラアト(重い皮膚病)に冒された人を癒す場面がある。

(前略)イエスに向かってひれ伏し「主よ、お心ひとつで私をきよくすることがおできになります」と言った。イエスは手を伸ばして彼にさわり「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
(マタイ8:2-3)

病人が懇願したのは「清さ」であったが、イエスが与えたのは「聖さ」であった。単に病気を癒したのではなく、その人の生き方を改めさせる、つまり、イエスはこれまでの生き方と区別するようにされたのだ。

似ているようで、意味合いは違う。

パウロの言葉もみておこう。「聖さ」について、深く思い巡らせることができる。

神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。私たちが前もってあなたがたに話し、厳しく警告しておいたように、主はこれらすべてのことについて罰を与える方だからです。神が私たちを召されたのは、汚れたことを行わせるためではなく、聖さにあずからせるためです。
(第一テサロニケ 4:3-7)

「聖さ」を追い求めよう。