聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

荒野に道を

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見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。
 
イザヤ書 43:19
 
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見よ!すべてが新しくなった。
 
前回取り上げたコリント人への手紙第二でのパウロの宣言である。
 
新年度を迎えるに相応しい聖句だと思う。
 
パウロは律法学者だから旧約聖書に精通している。だから、今日の聖句もきっとアタマにあったに違いない。
 
神は、イザヤを通して「見よ!わたしは新しいことを行う」と言われ、そして、パウロは「見よ!すべてが新しくなりました」と宣言した。
 
それは、新しいことを行うと言われた神のことばを、数百年の年月を経てパウロが引き取り、新しくなったと完了の報告をした、ということだ。
 

 
ここから2つのインプリケーションを得た。
 
1つは、「新しいことを行う」と言われた神が、必ず荒野に道を、砂漠に川を作られると、約束されたことから。
 
神は、道などできっこない荒野にでも道を作られる。川など流れるわけがない砂漠にでも川を作られる。神はそういう方。
 
ゆえに、どのような苦難の中にあっても、神に不可能なことはないと信じて、神が作られる道や川を期待し願うことは、私たちに与えられた特権であると思えた。
 
ロシアとウクライナの情勢を思い浮かべながら、どうか神が、苦しみや悲しみの中にある人たちに慰めと癒しを与え、救いの道を用意してくださることを願う。
 

 
もう1つは、この時期、この週にこの聖句が示されたことから。
 
教会暦では、今度の日曜日がイースターである。ということは、この1週間は「受難週」といって、イエスが十字架に掛けられ、死んで墓に葬られ、3日目に甦ったことに思いを馳せるときである。
 
この時期に、このイザヤの聖句は相応しい。
 
なぜなら、人にとってこれまで経験したことのない新しいことというのは、紛れもないイエスキリストのことであり、神であり人であるイエスがこの世に来られたことは人類にとって、何よりも新しいことなのだから。
 
そう、荒野の道、砂漠の川というのは、神にとってひとり子イエスのことである。
 
このように、道や川をイエスの存在になぞらえたり、あるいは希望や励ましと捉えたりと、2つの示唆が与えられた。
 
この2つは、しかし別々なのではなく、私たちにとって、イエスの存在=希望や励ましであるのだから、結局のところは同じこと、1つのゆるぎない真理である。
 
さぁ「主は道をつくられる」を賛美しよう。
https://youtu.be/ZvjuibW1yuU