聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

復活の主

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そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
 
コリント人への手紙 第一  15:14
 
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イースターはキリストの復活を記念する日だ。
 
キリスト教は、イエスキリストが生まれたからではなく、死んだからでもなく、復活したからこそ世界宗教として成り立った。
 
生まれてそして死んだだけなら、復活しなかったら、それは救い主ではなくただの人間であり、結果、キリスト教はこの世に存在しなかった。
 
奇跡的な生まれ方をしたし、たくさんの奇跡や預言も行った。それでも死んだままであったら、それらすべては虚しいものである。
 
さらに、死んでもすぐに復活しなかったことも、あらぬ疑念を抱かせないという点で重要である。もし墓に葬られてすぐに復活したなら、実は死んでなかったのではないかと疑われたかもしれないか。だから、腐敗が始まる3日目まで復活しなかった。
 
死んでから3日目、イエスキリストは自らが預言した通り、よみがえった。事実、イエスは生前「壊れた神殿を3日で建て直す」と、自らの死と復活を預言している。
 
わたしはよみがえりです、いのちです。
ヨハネ11:25)
 
復活の主を崇めます。
 

 
エスが十字架にかけられている場面で、私にとって印象的な言葉(というか罵言)がある。
 
それは「神殿を壊して3日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ 27:40)
である。
 
これはイエスを憎んでいた人が言ったのだろうか?
 
いや違う。
 
ただ十字架の前を通りすがっただけの人たちが、頭を振りながらイエスを罵り挑発したのである。
 
通りすがりはいえ「おまえが神の子なら」と言っているのだから、イエスを認識していたのだろう。
 
もしかしたら、イエスの存在によって職を失ったり、痛い目を見た連中なのかもしれない。だとしたら、野次馬として見物に来たついでに、嘲笑したのだろう。
 
なぜこの罵言が印象的かというと、私たちはこの人たちを責められないからである。言葉に出さないだけで、誰もが思ったはずである、自分を神と言うのならどうして自分を救おうとしないのか…と。
 
なにもこんな無様で哀れな姿を晒さなくてもいいではないか、私もそう思う。
 

 
しかし、驚くべきことに、それは神の御心であり計画であった。
 
旧約聖書でメシア預言と言われるイザヤ書53章には、こんな記述がある。
 
しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】の御心であった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】の御心は彼によって成し遂げられる。
(イザヤ53:10)
 
木に架けられて死ぬことは、当時、呪われた者の死に方であった。それもまた、計画であったとは、神さまは私たちが思いもよらない方法で、人類を救おうとされる。
 
今日の聖句でパウロが「キリストがよみがえらなかったら、私たちの宣教は虚しい」と言っているように、キリストの復活は私たちの信仰生活の根っこの部分を強く支える、キリスト教の最も重要な要素である。
 
復活し今も生きておられる主に感謝します。