草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。
イザヤ書 40:8
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今春、庭に植えたベリーの木々がいっきに紅葉した。
植えてすぐに可憐な花が咲き、夏には小さな実が熟し、それをもいでヨーグルトに入れたり、ケーキに乗せたりして味わった。
娘から「収穫できる木がいい」、妻と私からは「紅葉する木がいいけどモミジは好きじゃない」と、それぞれのリクエストを満たすべくガーデナーさんが選んだのがベリーの木。
花と収穫を経てからの紅葉。昼間はまだ暖かいが、朝夕は上着が必要になってきた。ちょうどこのくらいの時期が紅葉のタイミングなんだと実感した。
しかも黄色ではなく紅いのだ。
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こうして、庭の木々の変化を通して、自宅にいながら季節の移ろいを感じられるのは贅沢なことだと思う。
自然の営み、そこに神の創造主としての偉大な力を感じないわけにはいかない。
創世記1章にある天地創造を読みたくなる。
その第3日目には、こうある。
神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ」すると、そのようになった。地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた。
神がこの世を創造されたという考え、創造論は、偶発的に種が多様化してきたという進化論とは正反対の思想である。
神が無からすべてを創られたこと、しかも言葉によって創られたこと。
学校で当たり前のように進化論を学んできた私たちには、受け入れるのが難しい。しかし、創造論を受け入れることなく聖書を読み進めることはできない。
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永遠に変わることのない神が、変わりゆくものとして被造物を創られた。
興味深いではないか。
それは、変わりゆくものを通して、変わらない神の存在を知るためではないか。
今日のみことばを読み、創世記を読んで、そう思う。
変わらない神の存在は、私たちにとって大きな心の支えである。
そして、私たちもまた草木と同じように、青々と繁り、実を結び、紅葉し、枯れ、そして散っていく。
しかし、神の存在と神の言葉(これは同義である)はとこしえ、あぁ深遠なるかな。