種まく人は、みことばをまくのです。
(マルコ4:14)
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ミレーの有名な作品に「種まく人」がある。
他にも「落ち穂拾い」「晩鐘」などあるが、これらの作品を、私は単に農夫を描いたものと認識していた。美術の教科書でしか知らなかった頃の、絵画に何の関心もなかった頃のことだ。
このたとえ、少々長いが引用しておく。
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日がのぼると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」
このように種は、道端、岩地、茨、良い地の4種類の土地に蒔かれた。さて、その意味は?
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・道端→みことばを聞いても、すぐサタンが来て、蒔かれたみことばを持ち去ってしまう人。
・岩地→みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないので、困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人。
・いばら→みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結ばない人。
・良い地→みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人。
礼拝説教でこのたとえを聴くと、たいてい「私は岩地だろうか、いや茨かもしれない…」と良い地でない自分を恥じ入ったりするものだ。
さらに追い討ちをかけるように「素直にみことばを受け入れる良い地でいましょう」なんて言われると、自分に駄目レッテルを貼って凹んでしまう。
でも、違うのだ。大切なのは、種まく人、つまり神は、どんな土地にも等しくみことばの種を蒔いているということなのだ。
この一方的な恵みを知り、それに応答することが信仰である。
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最後にもう一つ別の視点を示そう。
種を蒔かれる側ではなく、蒔く側に立ってみる。受ける側ではなく、与える側に立ってみる。種まく人が自分だったら、と仮定するのだ。
同僚や部下と接するとき、愛を持って言葉を発しているか? 相談を受けたら、みことばに基づいた応じ方をしているか?
また、営業の現場で、売る買うだけの関係を超えて、みことばの種を蒔けるような信頼関係を築けているか?
みことばを蒔くことは、それを受け入れることよりもずっと意義深いと思っている。蓄えがないと蒔くことができないからだ。
まずは、素直にみことばを受け入れる。そして、豊かな実を結ぶ。蓄えた実を通して、みことばの種を蒔く。蒔かれた者も実を結ぶ。
豊かな実とは、聖書によると「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ 5:22-23)とある。
Love Circle、愛の循環に加わろう。