聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

復活の喜び

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私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。

ローマ人への手紙 6:8

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イースター礼拝で旧知の友人が受洗した。

イースターの洗礼は、主とともに死に、主とともに生きることをダイレクトに感じやすい。

もちろん、洗礼はいつ授かっても良い。クリスマスを選ぶ人は多いだろうし、ペンテコステだったり、自分の誕生日だったり、なんらかの記念日を選ぶこともあるだろう。

それでもイースターの洗礼が格別だと思えるのは、今日引用したローマ6章にこう書かれているからである。

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(6:4)

パウロは、バプテスマ(洗礼)をキリストの死と復活の象徴としている。

私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。(6:5)

洗礼は、水に浸かってそこから起こされる。水に浸かることは罪に死ぬことを意味し、そこから起こされることは復活して新しいいのちを歩むことを意味する。

だから、キリストの復活を祝うイースターに洗礼を授かることは、体験的に大いに祝されるのではないかと思うのだ。

洗礼を授かった彼女は、プロテスタント中高一貫校の入学式で「あなたたちは神に選ばれてこの場所にいるのです」と言われたことを素直に受け止めた。

以降、聖書のことばに親しみ、讃美歌を口ずさみ、そうして育まれた。

大人になってからも、彼女に植え付けられた信仰の芽は少しずつ成長し、苦難に直面したときには第一コリント10:13に励まされてきた。

信仰告白で彼女自身がそう証をした。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(第一コリント10‬:‭13‬/口語訳‬)

慣れ親しんだ口語訳でこの聖句を口にした。穏やかで、そして厳かだった。

7年前、私たちの教会に通い始めた彼女は、決して焦らず、コロナ禍にあっても信仰を失うことなく、自分の歩調で少しずつ信仰の芽を伸ばしてきた。

そうしてイースターでの洗礼に導かれた。

洗礼という儀式を通して、死と再生を擬似的に体験する。水から起き上がり、滴る水を気にしながらつぶった目を開ける。その顔の輝かしいこと。

新しく生きる、その始まりである。主とともに生きる道がここから始まる。

ローマ6章でパウロはこう続ける。

私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。死んだ者は、罪から解放されているのです(6:6-7)

そう、新しく生きることは、罪から解放されていることなのだ。

キリストとともに死に、キリストのいのちを生きる。このことが洗礼において起きているから、パウロは「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになると信じます」と告白する。

私たちは復活の恵みにアーメンと自らの信仰を表し、この世で与えられたいのちを大切にしていきたい。