裁いてはいけません。自分が裁かれないためです。
マタイの福音書 7:1
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4月からの新しいチーム編成に向けて、誰が何を担うかなど、役割分担の話をしている。
すると「Aさんはセールスのスキルが高いからこのタスクをやらせたい」とか、「Bさんはセールスに向いていないから他のタスクに変更させる」といった生々しい話になる。
スキルが高いか低いか、実績を上げているか上げていないか、こうしたことを踏まえて配置や役割を検討するのは、セールスの部署だから当たり前と言えば当たり前である。
問題はそこで話が終わらないことだ。
スキルや実績に留まらず、容姿や人格にまで話が及ぶと、これは許されることではない。けれどそうなってしまう。
しっかり区別して話していないと、簡単に間違った方向に話が展開してしまう。
このように私たちは知らず知らず、人を裁いている。
そう、知らず知らず。だから怖いし、だから厄介である。裁いていることに気が付かないのだから。
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イエスはこのことを実にうまいたとえで話している。
あなたは兄弟の目にある塵は見えるのに、自分の目にある梁にはなぜ気が付かないのですか。兄弟に向かって「あなたの目から塵を取り除かせてください」と、どうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目から塵を取り除くことができます。(7:3-5)
塵(別訳では「おが屑」)と梁(別訳では「丸太」)を対比させて、自分が持っている大きなマイナスを見ることなく、相手の小さなマイナスを突くことを厳しく断罪する。まずは自分のマイナスを改善し、それから相手のマイナスを見る、この順ではないかと。
今日取り上げたマタイの福音書の聖句では「裁いてはいけない、さもないとあなたも裁かれるだろう」となっている。
一方、ルカの福音書では同じ箇所が「裁いてはいけません、そうすればあなたがたも裁かれません」(ルカ6:37)となっていて、「命令形, or ~:さもないと」「命令形, and ~:そうすれば」と覚えた中学校英文法を思い出す。
orの方が強迫的で、andは説得的なニュアンスがある。こういう微妙な訳の違いが面白い。
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さて、私たちは、ときに自論を正論であると振りかざして、相手の自論を異論であるとみなしてマウントを取る。
考えてもみれば当たり前で、相手の自論が正しくて、自論が間違っているとは認めたくないものだ。
ただ、マウントを取ったとしても、批判すべきは相手の自論であって、相手の人格ではないから、そこは気をつけなければならない。
自分のことを棚に上げて他人を批判することは、よくない意味に取られるけれど、批判している中身が何であるか?も大切で、棚上げする行為を逆に批判していたら泥試合になる。
裁かないためには、相手が持っている小さな塵を取り除こうとする前に、自分がもっている大きな丸太を認識しておかねばならない。
塵が気になったら、立ち止まって丸太を見るといい。そして、相手を裁くことを踏み止まったら、天に宝を積んだことになるのだ。
最終的な裁き手は主なる神、ただ一人である。