聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

インテグリティ

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また、あなた自身、良いわざの模範となりなさい。人を教えることにおいて偽りがなく、品位を保ち、非難する余地がない健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて何も悪いことが言えずに、恥じ入ることになるでしょう。

テトスへの手紙 2:7-8


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3月に入ると、年度末ということもあり、部署の1年間の活動を振り返る。

今回の総括は訳あって単年度ではないところがいつもと異なり、思っていたよりちょっと大掛かりになっている。ま、落ち着いたら、いずれゆっくり向き合おうと思う。

さて、チーム全体の活動を月ごとに、そして施策ごとに整理するとき、チームのメンバーがどう考えどう動きどういう結果を得たのかをチェックしながらも、そのとき自分は各メンバーとどう関わろうとしたのかを思い起こす。

数値目標だけ示してそもそもの目的を伝えていなかったのではないか? 行き詰まりを覚えていたメンバーに適切な声掛けができていなかったのではないか? 相談されたときぞんざいな態度や言葉遣いをしてしまったのではないか?

このような苦々しい思いが、次から次へと浮かび上がってくる。

チームのリーダーとして、言葉や行いは適切であったであろうか、自分自身を顧みる。

使徒パウロクレタ島で、教会のリーダーとして奉仕しているテトスに宛てた書簡は、テトスへの励ましとともにリーダーシップ教育にもなっている。

今日の聖句はまさにその中心と言える箇所である。

・良いわざの模範となりなさい
・人を教えることにおいて偽りがなく
・品位を保ち
・非難する余地がない健全なことばを用いなさい

ノブレス・オブリージュを彷彿させる。

白洲次郎に言わせれば、それはプリンシプルになるだろう。

品性にあたる英語は、integrityとある。integrateが統合するという意味であるから、品性とは、一貫性があり健全性を伴い整合性が取れていることを指すのだと思う。

ちなみにこの聖句の直前には、具体的に誰に対してどう接したらよいか、具体的なアドバイスが書かれている。

年配の男の人には、自分を制し、品位を保ち、慎み深く、信仰と愛と忍耐において健全であるように。同じように、年配の女の人には、神に仕えている者にふさわしくふるまい、人を中傷せず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。(中略)同じように、若い人には、あらゆる点で思慮深くあるように勧めなさい。(2:2-3,6)

特に、最初の年配の男の人には…のところは現実的に刺さる。

修士論文のテーマが「ミドル・シニア人材の部下のパフォーマンスを高める管理職のマネジメントに関する研究」だったこともあり、テトスに対するアドバイスは決して他人事ではない。

私はなかなか自分を制する(律する)ことができず、苦しむことがある。慎み深くあろうとしても、自己中心から脱却することは難しい。

しかし神はそんな私を見つけ出し、救い導き、この世の役に立つように用いてくださる。神の栄光を映し出す鏡として立たせてくださる。欠けのある存在であっても神にとっては「わたしの目には、あなたは高価で尊い。(イザヤ43:4)」のだ。 

練られた品性を身につけられますように。

 

 

やり返さない

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悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。

ペテロの手紙 第一 3:9


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ハムラビ法典を思い出した。

「目には目を歯には歯を(An eye for an eye and a tooth for a tooth)」と高校の世界史で習った。

そのとき、おそらくは正しい意味を教えてもらっていたと思う。これは同害報復を命じるもので、必要以上の仕返しを禁じた法律である、と。

しかし、高校生の私は「やられたらその分だけキッチリやり返すべし」と受け取った。愚かであった。

そして世間ではそのような誤用が今もされている。「やられたらやり返す」はまさにそうだし、有名なドラマの「やられたらやり返す、倍返しだ」は同害報復の原則に反するから、明らかな律法違反になる。

旧約聖書にも同害報復を定めた箇所がある。

骨折には骨折を、目には目を、歯には歯を。人に傷を負わせたのと同じように、自分もそうされなければならない。(レビ記 24:20)

聖書的には「自分の神をののしる者はだれでも罪責を負う(24:15)」から派生することとして、同害報復を命じている。なぜなら「わたしがあなたがたの神、主だから(24:22)」とある。復讐するは我(神)にあり、と似ている。いくら古代イスラエルが神による律法国家であるとはいえ、裁きは神の領域ということを忘れてはならないと思う。

しかし、新約聖書になると、イエス自身がこのことに言及し、こう述べている。

「目には目を、歯には歯を」と言われていたのを、あなたがたは聞いていますら、しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。(マタイ5:38-39)

エスは決して旧約を否定したのではない。

否定ではなく、同害報復の律法を正しく理解(やられたらやり返すではない)した上で、新しい律法の解釈を与えているのだ。右の頬をぶたれたら左の頬を向けなさい、下着を取ろうとする者には上着も与えなさい、1ミリオン(1.5キロ)行くことを命じられた者とは一緒に2ミリオン行きなさい、求める者には与えなさい。このようにイエスは律法の再定義を理解させるために畳みかけてくる。

これを聞いたユダヤ人の驚きと動揺が伝わってくる。私たちの理解を超えた神のパラドクス、凄すぎる。

民衆はおろか、最も身近にいた弟子たちでさえ、驚愕したことだろう。

それは一番弟子のペテロも同じで、自身の書簡に記した今日の聖句の箇所を読めばそれがわかる。

この書簡は、イエスの死後30年ほど後に書かれたもので、ユダヤ人向けではなく異邦人に向けて書かれている。つまり、現代に生きる私たちにも適用できる、ということだ。

一番弟子として、使徒として伝道に生涯をささげ、多くの人々をキリストへの愛に導いた。そのペテロがイエスの述べた真理を、自分のことばで語っている。このペテロの言葉に、イエスが去ってからの30年間の歩みの重みと、重ねてきた信仰を思う。

ペテロはいう。

嫌なことをされてもそれを返さないようにしなさい。侮辱されてもそれを返さないようにしなさい。イエスのたとえの過激さがやや和らげられている。とはいえ、だから簡単になったわけではない。むしろ、実際よくある場面だからこそ、より身近に感じられ、そして迫ってくるものがある。

ペテロは続ける。

むしろ祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです、と。

やり返さずに祝福をする。このことのなんと難しいことか。聖書を読んで把握しているペテロの性格からして、ペテロ自身が一番試されたのではないかと思う。打てば響くペテロは、誰よりも情に厚く感情的な男であっただろうから。

ペテロは「私たちは祝福を受け継ぐために神に呼ばれたのだ」という。祝福を与えるためには、祝福されていなければならない。そう、これがペテロの確信だ。

漁師をしていたペテロに「わたしについて来なさい、人間をとる漁師にしよう(マタイ4:19)」と言われたイエスに、網を捨ててすぐに従った原体験を終生忘れなかっただろう。イエスの招き、それは網を捨てて従ったまさにそのときであり、そのときが祝福を受け継ぐために召されたときであった。

ペテロの確信に連なり、祝福を受け継ぐ者として真理を実践しよう。

 

可燃型クリスチャン

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「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。

コリント人への手紙 第二 4:6
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営業パーソンをタイプ別に「自燃型・他燃型・不燃型」と分類することがある。

自燃型とは、特に手をかけずとも、勝手に動く人材で、まさに自家発電タイプである。

他燃型とは、自分から勝手に動くことはないが、助言したりけしかけたりすれば動き出す人材のこと。多くの営業パーソンはこのタイプかと思う。

そして不燃型。これは押しても引いても動かない岩のような人材で、管理職としては手をあぐねるタイプである。

どうしてこんなことを書き始めたかというと、クリスチャンにも「自燃型・他燃型・不燃型」があるのではないか?と思ったからだ。

しかし、同じ3つのタイプでも営業パーソンとクリスチャンは異なっていて、自燃型はあり得ないと思っている。

私の持論は、自燃型のクリスチャンはいない。自ら光を放つことができる存在は神しかいない、である。

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(第一ヨハネ 1:5)

にある通り、神は光だからである。

なんだか周りくどい話の展開になってしまったが、クリスチャンの3つのタイプは「可燃型・他燃型・不燃型」となる。

自燃型ではなく可燃型、である。

照らされると喜んでそれに応答する可燃型、照らされると思い出してそれに応答しようとする他燃型、照らされると背を向けて拒否する不燃型。

可燃型クリスチャンは、泣くものと共に泣き、喜ぶものと共に喜ぶことができる人。みことばに親しみ、よく祈る人。

他燃型クリスチャンは、一見するとクリスチャンか分からないけど、日曜日には礼拝に出席してみことばに触れる人。

不燃型クリスチャンは、信仰告白して受洗していても、なんらかの理由で信仰に躓き、みことばに背を向けてしまっている人。

自ら発火する太陽が神であり、私たちは太陽の周りにいる惑星、それを受けて光り輝く存在である。

アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった。(出エジプト‬ ‭34‬:‭30‬ 新共同訳‬)

神の光を受けて輝くものでありたい。主よ、私たちの心を照らしてください。

 

からだと部分

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あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です。

コリント人への手紙 第一 12:27

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組織マネジメントにおいて、ダイバーシティとかインクルージョンとか言われて久しい。

最近ではそこにエクイティも加わり、DE&Iなんて言ったりする。

カタカナは難しい(なんとなく分かるレベルに留まってしまう)ので、日本語訳を見てみると「Diversity=多様性、Equity=公正性、Inclusion=包摂性」とあった。

このDE&Iは、外資系ヘルスケア企業で働いている友人に教えてもらった。

とかくDiversityだけが取りざたされ、女性従業員の比率を高めるとか、障碍者を積極的に雇用しようとか、表面的なことに終始するけどそれだけでは組織は活性化しないんだ、と。それから、EがEquality(平等性)ではなくEquity(公正性)なのがポイントなんだ、とも言っていた。

グローバルで働いている人にとっては、さらに国籍や宗教なども絡んでくるだろうから、Diversityだけ重視してもInclusion(包摂性=異なる意見や立場・文化・価値観などを受け入れ調和を図ること)がなければ、それは同じ目的を共有して働くチームではなく、ただのグループ・集団に過ぎないことを身をもって味わっているのだろう。

さらに、包括的に受け入れるためには、平等性ではなく公正性こそ大切であることも実感するのだろう。

が、しかし、言うは易しであろう。

コリント人への手紙第一の12章は「からだ」を例に、一人ひとりが全体にとっていかに欠かせない存在であるか、説明されている。

読みながら、これはDE&Iのことだなと感じた。

いくつか節を抜き出す。

・からだが一つでも、多くの部分があり、からだの部分が多くても一つのからだであるようにキリストもそれと同様です(12:12)

・からだはただ一つの部分からではなく、多くの部分から成っています(12:14)

・もし、からだ全体が目だったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が耳だったら、どこで匂いを嗅ぐのでしょう(12:17)

・もし、全体がただ一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょう。実際、部分は多くあり、からだは一つです(12:19-20)

・からだの中には分裂がなく、各部分が互いのために配慮しあう(12:25)

・一つの部分が苦しめばすべてが苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべてが喜ぶのです(12:26)

実にわかりやすい。

「からだ」を組織、「一つ」を一人、「部分」を人材に置き替えてみる。

すると、一人ひとりの人材には、与えられた役割があり、私たちは与えられた役割に従って働くことで組織に貢献する。

と解釈できる。

しかし、ここで言う役割は、Job Descriptionのように表面的に明示されているタスクに留まらず、もっと深いところ、もっと根本的なところにある役割を意味する。

役割と言ってしまうと、どうしても義務的なニュアンスが伴うから、やはりここはクリスチャンとして、神から与えられた賜物(ギフト)と言いたい。

賜物は私たちの存在意義に直結するから。

キリストという「からだ」を構成する私たち「部分」には、一人ひとりにオリジナルの賜物が与えられている。それがダイバーシティである。

エクイティやインクルージョンを兼ね備えることは難しいが、ペテロのアドバイスがある。今日の聖句と合わせて咀嚼することで、クリスチャンとしてDE&Iを実践するものでありたい。

それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。(第一ペテロ 4:10)

受け取った賜物を適切に管理すること、用いること、そして互いに支え合うこと、これである。

 

リマインド

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あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。
疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。

イザヤ書 40:28

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footprints(足跡)という詩がある。

私が求道中のころ、同年代のクリスチャンの方から教えてもらった。

そういえば、求道中という言葉を久しぶりに使った。洗礼を受けていないが教会に通っている状態、洗礼を受ける準備をしている状態、それを求道中と言う。

実際、そのときは自分が洗礼を受ける準備をしているなんて思っていないから、人から「あなたは求道中ですね」と言われても、いやそんなことまだ決めてないんだけど…と困惑していた。

今となっては甘酸っぱい思い出。

信じるに値するのか?と疑心暗鬼で聖書を読みながら、洗礼を受けるって検定試験みたいなものかな、だったら自分はムリかなとか、真剣に考えていた。けれどそうではなかった。

主は私を背負って歩んでくださっていた。

自分の人生には自分の足跡だけが残っている、そんなの当たり前じゃないかと思っていたら、その足跡は主の足跡であった。パウロじゃないけど目からウロコとはまさにこのことであった。

https://youtu.be/SJXZqckChnM?si=T9gTJyxwgksIJ5Se

私は自分の足で歩いているから大丈夫です。むしろ、神さまは肝心なときに限って見捨てるから必要ありません。

今回取り上げたイザヤ40:28の直前には、そんなイスラエルの神への不平不満が記されている。

私の道は主に隠れ、私の訴えは私の神に見過ごされている。(40:27b)

同じように、footprintsの詩にも書かれている。

主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません。

こうして神に向かって「なぜ?どうして?」と嘆くことは不信仰なのか?

詩の作者やイスラエルの民の嘆きは、私たちの嘆きそのものではないか。ただ代弁してくれているだけではないか。私たちは高いところからそれを批判できない。

私たちは物事がうまくいっているときは神の存在を忘れ、自分の力を誇る。なのに、逆境に陥ると神に向かって「なぜ?どうして?」と嘆き、不平不満を述べる。

自分が背負われていることも知らずに、どうして一緒に歩いてくれないのか、と。

しかしイザヤ書40章において、神はご自身の4つの性質を示し、神の存在を思い起こしてくださる。

1.主は永遠の神
2.地の果てまで創造した方
3.疲れることも弱ることもない
4.その英知は測り知れない

時を支配し天地を創造し、それでいて疲れも弱さもなく、測り知れない英知を持つ。そんな存在が神でなくていったい誰が神たり得るのか。

私たちは、神が治める時の中で創造された被造物として、疲れても弱っても慰められ励まされ、神の英知のほんのわずかを自らの知恵として活用する者だ。

嘆きや不平不満も知恵あってこそ吐けること。そう思えば、神のおかげで私たちは安心して(?)嘆いたり不平不満が言える。

しかし、神にぼやくそのときに、私たちは神の4つの性質を思い起こす者でありたい。

「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか」は、神の叱責であると同時に「あなたは知っているはずだ。聞いたことがあるはずだ」と、神からのリマインドでもある。

応答しよう。

主よ、私はあなたの存在を知っています。あなたの御ことばを聞いています、と。

 

来て見て

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来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。

ヨハネ福音書 4:29
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来て見て、と聞くと富士通のCMを思い出す。

あれはいつだったかとググってみると、96年とあった。そうか、90年代後半、デスクトップPCからノートPCへ、Windows95から98へ。iMacリリース前、とすると当時の覇者はNECだったか?すると富士通は後発だったか…。

あの頃はまだAmazonなどなく、ネット消費も全然盛んではなかった。何かを購入しようと思ったら、現物があるところに「来て見てさわって」確認してからが普通だった。

ネット消費が主流になった現代であってもリアル消費がなくなったわけではない。むしろコト消費やトキ消費というように、文脈や体験を伴う消費行動に価値が置かれている。

聖書を読むと「来て見てさわって」はじめて信じた弟子の話がある。

そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
ヨハネ 20:25)

疑い深いトマス。この頑なさ、まるで自分を見るようで辛い。

さて、今日取り上げたのは「イエスとサマリヤの女」の箇所である。

ここでのメインテーマは「尽きることのないいのちの水(Living Water)」だが、これはこれでまた別の機会にじっくり記したい。

女はイエスとの問答を通して、イエスが来るべき救い主メシアだと自覚する。言い方を変えれば、女はイエスとの問答によって、自らの罪の悔い改めと信仰告白に導かれた。

エスに飲み水を与えようとしたサマリヤの女は、逆にイエスから生きる水を与えられ、目が開かれた。

居ても立っても居られなくなった女は、水がめを置いたまま町に走って戻った。

来て、見てください!

息も絶え絶えに女は町の人々に叫んだ。

町の人々の反応はどうであったか? トマスのように見なければ信じない頑なな人たちであっただろうか?

答えはNOだ。

彼らはすぐに町を出てイエスのもとに向かった。そして「その町の多くのサマリア人が『あの方は私がしたことをすべて私に話した』と証言した女のことばによってイエスを信じた(4:39)」のである。

来て見て信じたサマリヤ人の素直さは、ユダヤ人であるトマスの頑なさと対比してみるとより際立つ。

著者のヨハネは明らかに意図的に対比して書いていると思われる。実は、ヨハネ福音書にはもう1箇所「来て見て」エピソードがある。

それは冒頭の第1章にある。

ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」ピリポは言った。「来て、見なさい」(1:46)

こうしてヨハネは、1章でピリポに、4章でサマリヤの女に、そして20章でトマスに「来て見て」を言わせた。これを意図的と言わずしてなんと言おうか。

来て見たら信じる人、来て見てもなお信じない人。あなたはどっち?と問われたら、当然来て見たら信じる人になりたいと答える。

では、来て見たら信じる人、来て見なくても信じる人。あなたはどっち?と問われたらどうだろう。

途端に即答できなくなってしまうのではないだろうか。

エスはトマスにこう言った。

あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。(20:29)

来て見なくても信じる人になろう。

 

 

神の愛

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神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。

ヨナ書 3:10
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ヨナ書は4章しかない短い預言書だ。

しかし、そのユニークな内容とショッキングな展開は、読む者の記憶に深く残される。

1章では「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ(1:2)」と、ヨナは神から召命を受ける。が、それに逆らって船に乗って逃亡する。

「ところが、主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった(1:4)」ため、ヨナは海に投げ込まれてしまう。

ヨナを投げ込むと途端に海が凪いだので「人々は非常に主を恐れ、主にいけにえを献げて誓願を立てた。主は大きな魚を備えて、ヨナを吞み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた(1:16-17)」。

という話である。

魚の中で神に祈り叫んだヨナは、三日後にようやく陸地に吐き出された。ヨナの祈りにこたえ、ヨナを魚から吐き出させた神は、再びヨナを召命する。

「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ(3:1-2)」

一度失敗したとしても、悔い改めのときまで神は忍耐強く待っておられ、悔い改めると神は再び語りかけてくれる。

先週の礼拝で私は司会を担当した。旧約聖書の朗読箇所がヨナ書の3章であった。

朗読に備えてヨナ書を1章から丁寧に読んだ。そこで感じたことは、神の召しから逃げ出すヨナへの同情と、そんなヨナを忍耐強く待たれた神の憐れみであった。

3章では、ニネベに到着したヨナが、神の滅びのメッセージを告げる場面が描かれている。

ニネベの人々はどう反応したのか?

驚いたことに「もしかすると、神が思い直して憐れみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない(3:9)」と、あっさり悔い改めたのだ。

そして今日の聖句「…そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった」につながる。

放蕩息子と父の例話を思い出す。

ヨナ書はここで終わってもよかった。神からの滅びの宣言を受けてニネベが悔い改めて神を信じた。それによって神の裁きを免れた、めでたしめでたしと。

ところが、続きの4章がある。

4章では、悔い改めて滅びを免れたニネベを見て、あろうことかヨナが怒る。不愉快になり、神に不平不満を述べる。もう死んだ方がましだと自暴自棄になる。

裁きが下るから悔い改めよと言われたニネベが悔い改めたことで裁きを免れた。このことによりヨナの預言は無効になるというパラドクス。

ヨナの預言者としてのプライドが傷ついたのだろう。

自尊心が損なわれると、私たちはショックのあまり怒りに身体を震わせる。ヨナの怒りはまったく他人事ではない。

それからヨナと神との問答が続く。駄々をこねる子どもを優しく諭す親のように、神は忍耐強くヨナに語り、無条件の神の愛、計り知れない神の愛を教える。

ここで再び、放蕩息子の例えを思い出す。今度は、放蕩息子の兄と父のことである。

悔い改めて戻ってきた放蕩息子(弟)を父が無条件の愛で受け入れたのを見て「兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた(ルカ15:28)」

兄のプライド、ヨナのプライド。怒りに身体を震わせる。2人が重なって見える。

しかし、神はそんな2人をも無条件の愛で寄り添ってくれる。一緒に喜ぼうではないかと、肩を叩いてくれる。

ローマ人への手紙12章にある有名な聖句「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい(ローマ12:15)」にあるように、私たちはともに喜び、ともに泣くことで、神の愛を学ぶ。

プライドはある、嫉妬心もある、優越感もある。それでも、一緒に喜ぼう。一緒に泣こう。神の愛に少しでも近づいて生きていこう。