聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

救いのこと

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主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。

使徒の働き 16:31

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ある目的を達成したい。

そうすると、ビジネスでもスポーツでも、たいていまずいくつかのステップに分けて考える。スケジュールを立て、いつまでに何ができるかメルクマールを設定する。

小さくステップを刻むことでヤル気が持続するし、軌道修正をかけやすい。小さな成功と達成感を積み上げて、ゴールに到達する。

どうしてこんなことを思ったのかというと、旧知の友人と久しぶりに会って話しているときに、中学受験の苦労話と彼女自身が大病を患ったことを聞いたからだ。

志望校合格というゴールを目指して、スケジュールを立てステップを刻んできた。それでも望んだ結果を得られず、第一志望校への進学が叶わなかった。入学した学校のことを聞くと、決してその子どもにとって悪い選択ではなく、むしろキャラクターに合っていて実は最善の結果であったのではないかと思えた。

親の立場からすると、そうは言っても、いったい受験のためにどれほどのコスト(経済的にも体力的にも精神的にも)をかけたのか、と思えばやりきれないものがあったかもしれない。しかし、時間がたてばきっと、この選択が本人にとってよかったと思えるはずだ。親が思うよりも、子どもはもっとシンプルに、与えられた目の前の環境にアジャストしようとすると思うから。

結局、受験は何をしたから合格した、何をしなかったから合格しなかったとかではない。合否はあくまで結果であり、その結果から、また次のステップを刻めばいいと思うのだ。

それよりも、彼女が患った大病のことを聞いて、そのやりきれなさに触れて心が塞いだ。

生命に関わる大きな病気を患う。

治したいと思っても、自分の力でスケジュールを立て、ゴール設定して、ステップを刻むことは難しい。治療に関しては、医者の勧めに従うのが普通であろう。

幸いなことに早期発見だったため、放射線治療を経て、いまは普通の暮らしを営んでいる。彼女は「救われた」と言った。

「救われた」と言いながら、「生かされた」とも言った。それから、こう続けた。

どうしたら人は救われるのだろうか、と。

そこで今日の聖句を思い出して、私は「イエスキリストを信じること」だと言った。というか、クリスチャンにとって、救われるにはそれ一択だ。

もしかしたらキリスト教以外の宗教では、救いのスモールステップがあるのかもしれないし、ステップを刻んだ方が「こうしたら救われる」と明確でわかりやすいのかもしれない。救いに至る道もいくつかあると思われるだろう。

しかし、イエス自身はこう述べている。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)

道は一本しかない。スモールステップもない。*

ただ実際は、信じれば救われると言われても、難しく思うだろう。

「信じる」とはどうすることか?で戸惑うのだ。

ここは、使徒パウロのこの教えを覚えよう。

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10:9-10)

だからキリスト教会では洗礼を受けるとき、信仰告白をする。口で告白することを重んじる。

信じれば、聖霊が内住し、イエスに似た者に変えられていく。救いのステップは示されないが、聖霊が救いのプロセスを導いてくださる。振り返れば確かに少しずつステップアップしてきたことを知る。

信じるだけで行いが伴わなければ意味ないじゃないかと、行い(業=ワザ)を重視する向きもあるだろう。行いを否定はしないが、大切なのは、行いありきではなく、信じることと行いを不可分で一体と捉えることだと思う。

信じることで行いが変えられる。変えられた行いを、身近で見続けている家族もまた救われる。