しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
コリント人への手紙 第二 3:16
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人を説得するのに二項対立は有効なフレームワークである。
たとえば、商談などで商品選択を迫る場面では、多くの選択肢を提示するよりも「Aにしますか? それともBにしますか?」と、二択に持ち込むことでほしい結果を最短距離で得ようとする。
営業マンや販売員なら誰しもが使うテクニックだろう。
そう、これはあくまでテクニックだ。選択肢を狭めることで、どちらかを選べばいいと単純化させることによって相手の思考を停止させる。
さらに狡猾な営業マンになると、自分が売りたい方を相手が自分の意思で選び取ったと錯覚させるように上手に誘導したりする。
しかも、二項対立という一見論理的なフレームワークを用いて説得しながら、感情の面で相手を気持ちよくさせることも欠かさない。
たしかにテクニックであるが、だから悪いと言いたいのではなく、二項対立は物事をシンプルに理解するためには有効でとても強力である。
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パウロはコリント教会の人々に向けて、二項対立を用いて説得を試みている。
何と何を対立させているのか?
それは、古い契約と新しい契約である。第二コリント3章の中では、以下のように言い換え表現されている。
古い契約→文字に仕える者、石の上に刻まれた文字、死に仕える務め、罪に定める務め、かつては栄光をうけたもの、消え去るべきもの、覆いがかけられている
新しい契約→御霊に仕える者、義とする務め、さらにすぐれた栄光、永続するもの、キリストによって取り除かれるもの
つまり、古い契約とはモーセの律法のことであり、新しい契約とはイエス・キリストを仲介者とした神の一方的な恵みによる人間との関係回復のことである。
ローマ人への手紙の6章に、こう書かれている。
罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。(6:14)
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イエスは、西暦のBCとADの境目となっているように、古い時代から新しい時代へのブリッジになっている。
それはそのまま、古い契約である律法の時代から、恵みによる新しい契約へのブリッジであり、私たち人間と主なる神をつなぐブリッジでもある。
そのことをパウロは「覆い(ベール)」をメタファーとして使いながら、ベールを掛けたままか取り除くかの違いだと、わかりやすく説いてくれる。
ベールを掛けて見えないままでいいのか、それともベールを脱いで見える状態がいいのか、そうやって二項対立を上手く使っている。
今日の聖句、第二コリント3:16の直前には、このようなことが書かれている。
しかし、イスラエルの子らの理解は鈍くなりました。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが掛けられたままで、取りのけられていません。それはキリストによって取り除かれるものだからです。確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。(3:14-15)
では、ベールを脱ぐにはどうしたらいいのか?
その答えが、今日の聖句である。
主に立ち返りなさい、と。
立ち返るとは、180度向きを変えること。クルッと向きを変えてキリストを仰ぎ見ること。主に立ち返り、キリストによってベールが取り除かれる。
そして、私たちは真実を知る。自由を得る。