兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
(ガラテヤ5:13)
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自由。
この言葉を聞くと、自分が高校生だったときのことを思い出す。
授業を抜け出して、近くの広場にあった芝生に寝そべって、早くこんな田舎から脱出したい! 東京に行きたい! 自由になりたい! って夢想していた。
そう、地方に住む10代の少年にとっての自由とは、うるさい大人から逃れ、都会で自分の好きなように生きること、それであった。
高校卒業と同時に東京の大学に進学したことで、少年の夢は叶った。自由を手に入れ、翼が生えた気分で、好き放題に生きた。20代半ばまで、そんな生き方が格好いいと思っていた。レニークラヴィッツのAre you gonna go my way(邦題「自由への疾走」)がFMでよく流れていた。
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しかし、思っていた自由は、解放ではなく束縛であった。自分の好きなように生きるとは、自分の欲望に束縛されるということであった。
それに気が付くために、たくさんの罪を犯し、仕事を失い困窮し、耐えられない病を与えられた。
自由の本当の意味を身をもって知ることができてよかった。と、今だから素直にそう言える。
パウロはこの書簡の中で「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」と記している。
そう、欲望の奴隷から解放され、キリストにある自由を得た。自由の僕になったのだ。
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キリストにある自由とは何だ?
高ぶることなく謙遜で、キリストが私たちを愛してくださったように隣人を愛すること、これだろう。
愛をもって互いに仕え合うことができるように、キリストは私たちに自由を与えてくださった。
へりくだって人に仕える。それは、欲望に束縛されている状態では絶対にできない。なぜなら、謙遜とは対極の自分中心の考えに支配されているからだ。
仕えるためには、自由な状態でないとならない。解放されているが故に、謙遜でいられる。人に仕えることができる。愛を持って接することができる。
最も自由であったキリスト自身が、弟子たちの前にへりくだって仕えた場面といえば、最後の晩餐での洗足であろう。
イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。(ヨハネ13:3-5)
主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。(ヨハネ13:14-15)
本当の自由を得た者は強さを持つ。強さを持つ者は弱さを誇る。弱さを誇る者は愛を持って人に仕える。喜んで仕えよう。