あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。
第一ペテロ1:8
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
「私はその手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(ヨハネ20:25)と言った疑い深いトマスの例を出すまでもなく、私たちには目に見えるものしか信じない傾向性がある。
この傾向は現代になってますます顕著になりつつあるのではないか。
たしかに目で見ることは大切だし、見ることで理解が深まり真理を知ることもある。実際、幼い子どもは目で見て物事を判別するし、安全か危険か、有害か無害か、そうしたことは見ながら覚えていく。
しかしあるとき、世の中には見えるものばかりではなく、見えないものが存在することを知る。
大人たちが見えないものを恐れたり、拝んだりする場面に遭遇し、そこでの場の共有を通して、見えないものに対する感覚、信仰や畏怖の念を体得する。
それは昔に遡れば遡るほど強かったのではないかと思う。
*
連休を利用して2泊3日で奈良に出かけた。
明日香で1日、斑鳩で1日、奈良市内で1日とプランを立てて訪問した。
飛鳥→斑鳩→奈良の順は、そのまま時系列になっていて、それは、日本に仏教が広がっていく過程そのものであり、仏教の伝播により古墳時代が終焉をむかえたことに重なる。
古来の日本人は仏教を取り入れることで、新しい死生観を身に付けたし、新しい信仰のために仏像は欠かせないアイテムとなった。
今回の旅では実に多くの仏像を見た。仏像は人が木や石を彫って作り上げた素晴らしい作品に過ぎないが、それを信仰の対象として拝ませることが一般大衆に対する布教の原点だった。
奈良国立博物館で開催中の空海展にも立ち寄って、仏像に加え曼荼羅も見た。その空海がこう言っている。
「密教は奥深く、文筆で表し尽くすことが難しい。そこで、図や絵を使って、悟らない者に開き示すのだ」と。
目の前にいる仏像を拝み、見て信じることを率先して実践していたことがわかる。
*
ではクリスチャンは何を見ようか。
神は目に見えない。キリストは2000年前に実在したが見たことはない。
プロテスタントにはロザリオやイコンもない。見るものはただ一つ、十字架のみ。教会には屋根に十字架があり、会堂の正面に十字架がある。私たちはそれを見る。
十字架は信仰の象徴として存在し、十字架そのものは信仰の対象ではない。いくら立派な十字架であっても、それを拝むことはない。
十字架を通して、神を知り、キリストに出会い、聖書に親しみ、恵みに預かり、信仰を深める。
ルターが宗教改革で提唱した「5つのソラ」がまさにそうである。
https://www.seishobridge.com/content/detail/id=3243
目に見えない神は、さまざま方法で私たちに現れてくれる。一般的には、自然の摂理を通して私たちに自らの存在を知らせる。一般啓示という。
加えて、聖書に記されているような超自然的な力によって神が現されることを特別啓示というが、その最たるものがイエスキリストである。私たちはイエスキリストの十字架を見て、見えない神を信じる。
最後に「へブル人への手紙12章2節」の前半を引用したい。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。(ヘブル12:2a)
「目を離さない」は、英語では "fixing our eyes on Jesus" とあるように、フォーカスし続けることが大切。「見続ける」ということだ。
その先に、栄えに満ちた喜びが待っている。