わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。
ヨハネの福音書 8:12
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街に掲げられている聖句が書かれた看板。
「キリストは命です」「神と和解せよ」など。黒地に白と黄色の文字で、結構あちこちで見かける。調べたら、ある団体が行なっていることがわかり俗に、キリスト看板、と言うそうだ。
今日のみことばは、そんなキリスト看板でよく見かける箇所だ。
私は世の光です。
使徒ヨハネは、福音書のはじめに光と闇のことを記した。以前、聖書塾で学んだ知識によると、ヨハネは福音書を書き終えた後に、最初に戻って1章の冒頭を書き加えた、とのことだ。
ヨハネの福音書のテーマは、ズバリ光と闇。
福音書を書き終えたヨハネは、書き足さずにはいられなかったのだろう。1章の5節と9節の2箇所を引用したい。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(中略)すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
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ヨハネが光と闇について記したとき、間違いなく頭には創世記の冒頭の聖句があったはずだ。
はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ」すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
神は天地創造で光を作り出し、闇と区別した。
ヨハネはこの光をイエスと重ねた。
そして、イエス自身も「わたしは世の光です」と宣言した。
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イエスの宣言は、当時の人々を熱狂させ、混乱させ、憎悪を招いた。
ヨハネの福音書8章は、イエスと律法学者であるパリサイ人との問答が長々と続いている。
イエスが光であると宣言したことに憤慨したパリサイ人が、律法の知識を使ってイエスを陥れようと試みるが、イエスの真実の前に退けられる。
そして、いよいよ言い返すことができなくなった彼らは「イエスに投げつけようと石を取った(ヨハネ8:59)」つまり、殺そうと企んだのである。
この問答を読んでいると、決して二千年前の昔話ではなく、今もキリストを受け入れようとするときの反発や葛藤と似ている。
古い自分(闇)を脱ぎ捨て、新しい自分(光)を纏おうとするとき、私たちは長年馴染んできた価値観とか人生観をなかなか捨てることができない。
これが原罪、つまり罪の性質である。
闇の中で罪の奴隷になるのではなく、光を得て自由を手に入れる。
信仰を持つことで自由が奪われるのではなく、窮屈になるのでもない。むしろ、新しい価値観と人生観、そして世界観を持って生きていくことは、囚われからの解放であり、自由である。
そのことを今日の聖句は教えてくれる。