ことばであれ行ないであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。
コロサイ人への手紙 3:17
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「じっちゃんの名にかけて」という有名な決めゼリフ、金田一少年だったか。
「〜の名にかけて」という表現は、日本語ではなかなか使わない。
「〜にかけて」だったら、誓うときによく使う。
天にかけて誓うとか、ご先祖さまにかけて誓うとか、命にかけて誓うとか。
この「かける」って「賭ける」と書く。つまり、debtな訳だ。
金田一少年は、じっちゃんの名に賭けて事件を解決することを誓うのだ。
が、個人的にはやや違和感がある。賭けて、ではなく、肖(あやか)って、くらいがちょうどいいのではないか…と。
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年末らしく、だらだらと散漫に書き連ねてしまった。
私たちクリスチャンは祈るときに、必ず「イエスキリストの御名(みな)によって祈ります。アーメン」と言って、祈りを閉じる。
これは万国共通である。
どうしてかと言うと、イエス自身がそのように教えているからだ。
引用しよう。
またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。
(ヨハネの福音書 14:13-14)
イエス自身の教えであるが、シンプルがゆえに誤解されやすい。
なんでもしてくれると言うのなら、あれがほしい、これがしたいと、自己の欲望を並べ立てた挙句、最後にイエスキリストの御名によって祈りますと言えばいいじゃないかとなるからだ。
極めて浅い解釈と言えよう。
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今日の聖句は、イエスの言葉ではなく使徒パウロによるものである。
パウロもまたイエスの名前によって、言葉を発し、行動しなさいと諭す。
イエスの名前によって。もう少し踏み込んでみると、イエスの権威によって、となる。
私たちは本来、神に何かをお願いできるような者ではない。イエスが橋渡しとして仲介役を担ってくれるから、私たちはイエスの権威によって神に祈ることができる。
このこと自体が感謝すべきこと。
だからパウロもこう書いている。
主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行い(祈り)なさい。
まずは感謝、そして祈りである、と。感謝ありき、感謝ファーストなのだ。
私たちは、イエスの名前によって、今を生きている。
いろんなことがあったけど、今年1年を生きてこれた。感謝である。