だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
マタイの福音書 23:12
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イエスが律法学者やパリサイ人(ユダヤ教の宗教的指導者)に対する批判を語る場面。
23章の冒頭から今日の聖句である12節に至るまでに、イエスが話したことを箇条書きにして、そこから適用を考えたい。
・彼ら(律法学者・パリサイ人)があなたがた(弟子・群衆)に「言うこと」はすべて守りなさい。
・しかし、彼らの「行い」をまねてはいけない。・彼らは人々に重い荷を載せるだけ載せて、それを助け支えるために指1本出さない。
・彼らの「行い」は人に見せるためである。
・先生と呼ばれることに慣れており、それを求めている。
彼らは言っていることと行動が伴っていない、有言「不」実行、言行「不」一致であると、痛烈に批判した。「おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいだ(マタイ 23:28)」と、舌鋒鋭い。
言っていること、つまり「教え」そのものは聖書に書かれていることだから、正しいのは当然。だから守る必要がある。
しかし「行い」は見倣うものではない、と。
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イエスが生きた時代、それは旧約聖書と新約聖書の狭間の時代(中間時代という)であり、その頃の中東パレスチナはローマの支配下にあった。
世界史を眺めると、時の為政者がペルシア帝国からギリシアに移り、アレクサンダー大王の死後、帝国が分裂し混乱し、やがてローマが台頭する、そんな時代である。ちなみに中国は秦・漢、日本はなんと弥生時代である。
このような混乱と不安の時代に、ユダヤの指導者は律法に忠実に生きることを人々に求め、人々は聖書に預言されたメシアを待望するようになった。
宗教的指導者たちは、守るべき聖書の「教え」に群衆が忠実であるために、膨大な数の取り決め(=新たな「教え」)を張り巡らせた。これを口伝律法というが、イエスはこれについては激しく戒めている。
このように「教え」を細かく設定し、日常生活をがんじがらめに縛ることによって、彼らは専門家として先生として、高いところに存在する者であることを顕示した。
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イエスは最も高いところに存在するお方であるのに、低き者としてこの世に来られた。
「ピリピ人への手紙」を引用する。
キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。 (ピリピ 2:6-9)
そして、イエスは「あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」と教えた。
さらに「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい(マタイ20:28)」と、へりくだりと奉仕の精神を求めた。
現代に生きる私たちは、ユダヤ教信者のように口伝律法に拘束されることはない。イエスが教えたシンプルなルールを胸に刻んで、神に喜ばれる生き方を求めるのみだ。
この世に功績を残す必要はない。天に宝を積もう。結果を神に委ねよう。
神はすべてを益としてくださる。