聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

見ずに信じる

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あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。
 
ヨハネ福音書 20:29
 

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エスが復活したことは歴史的事実である。
 
これを信じることなしにキリスト教は成り立たない。
 
クリスチャンが唱える使徒信条では「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ、ポンテオピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り…」とある。
 
ここに福音の三要素がある。
 
それは、死と埋葬と復活、である。このことはパウロ自ら書簡に記している。
 
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
(1コリント15:3-5)
 
キリストの復活を祝うイースターがどれほど重要か、これでわかる。
 

 
さて、今日の聖句では、キリストの復活が信じられなかった弟子のトマスの話である。
 
トマスは、その復活を信じなかったことをもって「疑い深いトマス」の異名が付けられた。
 
復活のキリストが弟子たちの前に現れたとき、トマスはそこにいなかった。もしそこにいたら、こんな異名を授かることなく、むしろ「信心深いトマス」と反対に呼ばれたと思う。
 
でも、残念ながら、いなかった。だから…
 
ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言った。
(ヨハネ20:25)
 
と、なってしまった。
 

 
トマスは本当に疑い深いのか?
 
本当のところは分からないが、もしかしたら、トマスは他の弟子の誰よりも信心深く、愛情深く、ゆえにイエスヘの愛も格別のものがあり、だからこそ十字架のイエスを見て誰よりも落ち込み、喪失感の中にあり、深い悲しみの中にあったのではないか?
 
だから、仲間の弟子たちと一緒にいられなかったのではないか?
 
だから、復活のイエスを見たと弟子たちに言われても、見るまでは信じないと、頑なになったのではないか?
 
トマスの強さと弱さ、両方感じる。私たちと同じではないか、と。
 
トマスは疑いながらも、もう逃げることはせず、弟子たちのところに留まった。そして、復活のキリストに出会うことができた。
 
エスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と諭されたトマスは、ここで「私の主、私の神よ」と信仰を告白する。
 
トマスは泣き崩れて、涙まみれだったろう。おいおい嗚咽するトマスが目に浮かぶ。
 
そのトマスにイエスが優しく声をかける。見ずに信じる者は幸いなんだよ、と。
 
私たちは復活のキリストに会っていない。しかし、立ち会い人たちの多くの証言がある。それが二千年語り継がれている。間違いのない歴史的事実なのである。
 
見ていない、でも信じようじゃないか。