聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

神の栄光

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主よ
私たちの主よ
あなたの御名は全地にわたり
なんと力に満ちていることでしょう
あなたのご威光は天でたたえられています
 
詩篇 8:1
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
「荒野の果てに」というクリスマスの定番ソングがある。
 
サビでは、グローリアを連呼するわけだが、これは天の御国での天使の大合唱を思わせる。もちろん聴いたことはないけど、黙示録とかに書いてある記述を読むと、いま自分が知っている音楽から想像するに、ハレルヤコーラスとか今年の年末も大々的に催されていた第九とかなんだと思う。
 
そして「荒野の果てに」のグローリアもまた、グローーーーーグローーーーーグローーーーーリア、インエクセルシスデオ! この美しい(文字で書くと驚くほど間抜けであるが)音階がそう思わせる。
 
GloriaとはGloryのことで、もはや日本語にもなっているグローリーであり、その意味は栄光であるが、日本語ではどちらかというと試合で勝つとか、優勝するときに使うから、栄光よりも栄冠の方が相応しいかもしれない。
 
年始恒例の箱根駅伝でも「今年の箱根路を制するのはどのチームか? 栄冠に輝くのは3冠を目指す駒澤か、連覇を狙う青山か?」みたいに使う。このとき、栄冠は「輝かしい勝利」という意味になる。
 
このように、栄冠も栄光もともにGloryであるが、使い方やニュアンスはことなる。
 
聖書では、神の栄光は罪に対する勝利という意味で使うこともあるので「輝かしい勝利」を意味することもある。けれど、神の栄光と言うときは、今回の訳語に充てられているように「威光」というのがしっくりくる。
 
あまりの輝くに目を開けることができない、直視できないほどの眩しさ、そう思っている。
 

 
直視できないといえば、聖書にはパウロが神の栄光に触れて目が見えなくなった事件が記されている。
 
「ところが、サウロ(パウロユダヤ読み)が道を進んでダマスコ(今のシリアの首都ダマスカス)の近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした」使徒 9:3
 
この光によって、パウロは目は空いているが何も見えなくなり、周りの人々が彼の手を引いてダマスコまで連れて行った。
 
パウロは三日間、目が見えず、飲むことも食べることもしなかった。三日後、イエスの弟子であるアナニアがパウロの上に手を置き祈ると、彼の目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった、とある。
 
有名な「目から鱗が落ちる」のエピソードである。
 
なぜパウロがこのような目にあったのかと言うと、それは神に選ばれていたのであり、そのことが聖書に書いてある。
 
「あの人はわたしの名を、異邦人(イスラエス人以外のすべての外国人、よって私たち日本人も含まれる)、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します」使徒 9:15-16
 


事実、回心後のパウロは、様々な苦難を経験する。コリント人への手紙第二には、パウロ自身が自身が受けた苦難を告白している。
 
ユダヤ人から40に1つ足りない鞭打ち→5回
・ローマ人による鞭打ち→3回
・石投げ→1回
・難船→3回
・川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難
・苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍えた
 
と、神さまが言った通りである。
 
しかし、神の計画によって、苦難と同時に、パウロを通して世界中に神の福音が示されたことは紛れもない事実である。パウロがいなければ、キリスト教がローマの国教となり世界的な宗教になることはなかっただろう。パウロがいなかったらキリスト教に体系的な神学は存在せず宗教になり得なかっただろう。
 
パウロがなぜこのような苦難を経験してまで伝道に熱心であったのか。
 
それは、回心したときの神との出会い、超自然的な体験がベースにあったからだと思う。
 
回心するまえのパウロ、つまりサウロは熱心な律法学者だったから、聖書の言葉はどれも諳んじることができたに違いない。
 
目から鱗が落ちたとき、パウロはすぐさまバプテスマ(洗礼)を受け元気になったとあるが、感謝の祈りとして、今日の箇所は間違いなく頭の中にあったであろう。
 
主よ
私たちの主よ
あなたの御名は全地にわたり
なんと力に満ちていることでしょう
あなたのご威光は天でたたえられています
 
この感謝と喜びが、いつまでもパウロの、そして私たちにとっての生きる支えなのだと思う。
 
2023年も神の栄光に満ちた素晴らしい1年でありますように。
 

コンピタンス

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何かを、自分が成したことだと考える資格は、私たち自身にはありません。私たちの資格は神から与えられるものです。
 
コリント人への手紙 第二 3:5
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
今日の聖句で「資格」と訳されているのは、英語ではcompetenceである。
 
competence=コンピタンス。経営戦略を学んでいると、よく「コア・コンピタンス」という言葉を聞く。モノの本によると…
 
他社に真似できない核となる能力。成功を生み出す能力であり、競争優位の源泉となる。
 
とある。
 
テキストには、シャープの液晶技術やソニーの小型化技術などが事例として挙げられている。平たく言えば「強み」である。
 
だから、聖書でも資格と訳すよりも、能力や適性と言った方が分かりやすいだろうし、文脈から言うと「強み」と訳してみるとしっくりくる。
 

 
ビジネスの世界にいると、効率化や合理化は美徳であり、そのためにスキルアップが求められる。
 
自己啓発や自己研鑽は、リカレントとかリスキリングとかアンラーニングといったカタカナ語によって、なんとなく良きものとして捉えられ、なんとなくそうしなければならないものとして認識される。
 
なぜそうするのか?自問すると、スキルアップしたいからと答えるだろう。なぜスキルアップしたいのか?と問われたら、3期連続赤字の自社をなんとかして利益の出る体質にしたいからと答えるだろう。
 
では、なぜ自社を利益体質にしたいのか?と問われたら、経済的な豊かさのためと答えるだろう。いや、違う。連続赤字の会社に入社するのを躊躇し内定を辞退された経験があるからだろう。
 
コロナ禍のなか、希望に満ちて入社した新卒1年目、2年目の若手社員が安心して働ける会社にしたい。そんな気持ちもあるだろう。
 
いやいや、この会社に入社したときの恩に報いたいからだろう。リーマンショックで転職市場がいっきに冷え込んだ2008年夏、毎日汗だくで転職活動をしていた私を拾ってくれたその恩に。
 
1才の娘と、慣れない東京暮らしに不安を抱えていた妻と過ごした無職の半年間。あのときの辛さや惨めさは今も忘れられない。ゆえに転職が決まったときは喜びに満ち満ちたのだ。
 

 
必死で働き、営業として結果を出し続け、現場のリーダーになり、課長になり、部長になった。
 
それは自己研鑽のおかげなのか?自分が頑張ったから手に入れることができたのか?スキルアップの結果なのか?
 
営業が上手くいかなかったとき、クレームや失注に落ち込んだとき、営業車の中で神に愚痴をこぼした。なんで?どうして?と神を疑った。
 
それにもかかわらず、神は私を用いてくださった。営業実績を上げられるよう養ってくださった。
 
商談でお客と心が通じたとき、感謝されたとき、大きな受注を獲得したとき、神に感謝したではないか。神さまありがとう!と神に祈ったではないか。
 
そうして私は自分なりの「強み」を手に入れた。
 
Our competence comes from God.
 
「強み」は神からくるものなのだ。それは自分なりの努力の結果、神が恵みとして与えるものなのだ。
 
今年1年の神の恵みに感謝しよう。

 

 

敵と敵意

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しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
 
マタイの福音書 5:44
 
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キリスト教の最も重要な教えの1つに「隣人愛」がある。
 
「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という言葉は、クリスチャンでなくても聞いたことがあるだろう。
 
隣りにいる人、たとえば家庭であればパートナーや子どもがそうだし、職場であれば同僚や上司、部下がそれに該当する。
 
しかし、それらの人々を自分を愛するように愛せよ、という教えは、簡単ではないと誰もが思う。
 
エスは律法学者に「律法(つまり旧約聖書)の中で大切な戒めはなんですか?」と尋ねられて2つ回答した。1つは神への愛、もう1つが隣人愛である。
 
律法学者は1つ目には絶対の自信を持っていた。なぜならそれが彼らの務めだからである。一方で、隣人愛についてはどうか? 聖書には「彼らは口をつぐんでしまった」とある。つまり、隣人愛は実践できていると言えなかったのである。
 
旧約聖書レビ記にはこう書いてあるのに…。
 
あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である。(レビ記 19:18)
 

 
律法の専門家ですら守れない、いや盲目になっていて分かり得ないかもしれない隣人愛であるが、イエスは今日の箇所でさらに次のレベルを示す。
 
隣人を愛することに躊躇し、ときに自分を愛するがゆえ隣人を傷つけることもある私たちに、イエスは隣人どころか敵までも愛せよ、と言うのだ。
 
そんなの無理だ…と思う。できるわけないじゃないか、と。
 
ここで冷静に考えてみたい。敵とは誰か?と。
 
たとえば戦場にいたとしたら、銃を持って挑んでくるのは敵で、身の危険を感じるレベルだからそれは明らかである。
 
けれどそうではなく、先に掲げた家庭や職場において、ふとしたボタンの掛け違えや意見の対立で、憤慨した様子で自分に挑んでくるような場面はある。
 
彼らは敵ではない。
 
敵ではないが、その瞬間には敵意に満ちている。
 

 
そう、問題は敵意なのだ。
 
たとえ親密な間柄であっても時に剥き出しになる激しい感情、それが敵意。明らかに敵ではない。
 
エスは敵を愛しなさいと言った。平和を享受している私たちは、身の危険を感じるような経験はないから、敵と言われてもピンとこないかもしれない。
 
だから、敵を愛するということを、敵意を受け入れると理解する。
 
敵意を受け入れるためには、絶対的な愛と赦しが必要で、愛と赦しを行使するためには祈りが必要である。
 
愛し受け入れることができるように、寛容になって赦すことができるように、と、
 
最後に、瀬戸内寂聴さんの言葉を。
 
人間は欲張りだから、つい自分のことばかり考えてしまいます。しかし、そうではなく、誰かのために祈ると、その祈りは必ず届きます。人のための純粋な祈りこそ、本当の祈りなのです。
 
神さま、どうか敵意を受け入れる寛容さをください。
 

表明する

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だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。
 
ヨハネの手紙 第一 4:15
 
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教会に通い始め、それなりに聖書を学び、神を知りキリストを知り聖霊を知り、信仰が少しずつ形成されてきた頃、ある疑問が私の中に滞留していた。
 
洗礼を受けるためには何が必要なのだろう、と。
 
もう少し具体的に言うと、洗礼を受けるためにはクリアしなければならない基準のようなものがあるのかとか、試験があるのかとか、そんなことを疑問に思っていた。
 
洗礼は儀式であるから、その儀式のためには必要な備えがきっとあるはずだ、それは聖書には書いていないけど、公表されていないだけで、教会の規程に明確に定められているに違いない。
 
たとえば、礼拝にマジメに出席しているか、聖書をちゃんと読んでいるか、その意味を正しく理解しているか、毎日欠かさずお祈りをしているか、といったチェックリストがあって、そのチェックが何個以上でないと、洗礼は受けられません!みたいなことがあるのだろう、と。
 
そんな疑問を抱き、だから自分が洗礼を受けられるのはもっともっと先になるな、と思っていた。
 

 
そんなある日、牧師から洗礼のための準備を始めませんか?と言われた。
 
きた!やっぱりあるんだ、けどどうしよう、全然そんな資格なんかないのに…と、心の中で葛藤があった。
 
が、始まったのは、薄いテキスト(タイトルは忘れた)を使った学びであった。
 
信仰を持って生活する、とはどういうことか?
 
クリスチャンであれば誰もが知っている「主の祈り」という短いお祈りがある。また、西方教会プロテスタントカトリック)に共通の「使徒信条」という信仰告白がある。
 
まずはこれらを正しく理解する。
 
すでに何度も唱和してきたので馴染みはあるが、歴史的経緯や1つ1つの言葉に込められた意味を落とし込めていた訳ではない。
 
特に「使徒信条」は信仰告白だから、私がクリスチャンとしての信仰を公に言い表すときに、ここに書いてあることはその通りであり、それに対してアーメンと言えることが
求められる。
 

 
使徒ヨハネが書簡の中で「イエスが神の御子であると告白するなら…」と示したことに対して、どうやって告白したらよいのか?と思うだろう。
 
古の信者たちもきっとそうだったはずだ。
 
だから、ローマ帝国キリスト教が広がり始めた2世紀後半に「使徒信条」が制定され、以後二千年間、クリスチャンの信仰告白として受け継がれている。
 
これによって三位一体の神を告白する。そうすれば、神は私たちのうちにとどまり、私たちも神のうちにとどまる。
 
使徒信条」
 
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
 
我はその独り子、我らの主、イエスキリストを信ず。主は聖霊(せいれい)によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまわん。
 
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し(ゆるし)、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
 
アーメン。

 

わたしは世の光

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わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。
 
ヨハネ福音書 8:12
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
街に掲げられている聖句が書かれた看板。
 
「キリストは命です」「神と和解せよ」など。黒地に白と黄色の文字で、結構あちこちで見かける。調べたら、ある団体が行なっていることがわかり俗に、キリスト看板、と言うそうだ。
 
今日のみことばは、そんなキリスト看板でよく見かける箇所だ。
 
私は世の光です。
 
使徒ヨハネは、福音書のはじめに光と闇のことを記した。以前、聖書塾で学んだ知識によると、ヨハネ福音書を書き終えた後に、最初に戻って1章の冒頭を書き加えた、とのことだ。
 
ヨハネ福音書のテーマは、ズバリ光と闇。
 
福音書を書き終えたヨハネは、書き足さずにはいられなかったのだろう。1章の5節と9節の2箇所を引用したい。
 
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。(中略)すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。
 

 
ヨハネが光と闇について記したとき、間違いなく頭には創世記の冒頭の聖句があったはずだ。
 
はじめに神が天と地を創造された。地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。神は仰せられた。「光、あれ」すると光があった。神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。
 
神は天地創造で光を作り出し、闇と区別した。
 
ヨハネはこの光をイエスと重ねた。
 
そして、イエス自身も「わたしは世の光です」と宣言した。
 

 
エスの宣言は、当時の人々を熱狂させ、混乱させ、憎悪を招いた。
 
ヨハネ福音書8章は、イエスと律法学者であるパリサイ人との問答が長々と続いている。
 
エスが光であると宣言したことに憤慨したパリサイ人が、律法の知識を使ってイエスを陥れようと試みるが、イエスの真実の前に退けられる。
 
そして、いよいよ言い返すことができなくなった彼らは「イエスに投げつけようと石を取った(ヨハネ8:59)」つまり、殺そうと企んだのである。
 
この問答を読んでいると、決して二千年前の昔話ではなく、今もキリストを受け入れようとするときの反発や葛藤と似ている。
 
古い自分(闇)を脱ぎ捨て、新しい自分(光)を纏おうとするとき、私たちは長年馴染んできた価値観とか人生観をなかなか捨てることができない。
 
これが原罪、つまり罪の性質である。
 
闇の中で罪の奴隷になるのではなく、光を得て自由を手に入れる。
 
信仰を持つことで自由が奪われるのではなく、窮屈になるのでもない。むしろ、新しい価値観と人生観、そして世界観を持って生きていくことは、囚われからの解放であり、自由である。
 
そのことを今日の聖句は教えてくれる。
 

待降節に思う

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しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
 
ローマ人への手紙 5:8
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
ここのところ原罪に思いを巡らせている。
 
原罪。それはアダムによってすべての人に漏れなく付加された罪のこと。
 
あのとき罪が人類に入り込んでいなかったら、いつまでもエデンの園で神とともに暮らすことができたのかなとか、それでも別の手段でやっぱりヒトは堕落し、その回復のために神はイエスを差し出したのかなとか。
 
ナンセンスとわかっていても空想してしまう。
 
旧約聖書を読んでいると、罪を犯し続ける人間とそれを赦し続ける神の関係が何度も繰り返し記されている。
 
ノアの時代、バベルの塔、ソドムとゴモラ出エジプトと、これでもかと言うくらい生々しく書かれている。
 
旧約聖書の後半、預言者の時代に入ると、有名なイザヤやエレミヤを通して、神はキリストの誕生を予告する。
 
神による人類救済計画、いわゆるメシア預言である。
 
ちょっと長いが、イザヤ書の53章をまるごと引用する。メシア預言といえばたいていここを取り上げるし、アドベント待降節)のいま読むのに相応しいと思うから。
 
理解が難しいのを承知で、ゆっくりじっくり読んでみよう。
 

 
私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
 
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
 
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。


まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。


しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
 
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
 
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
 
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。


彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
 
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
 

 
字面を追うだけではよく分からない。
 
イザヤ書を読み始めた頃、あまりに言葉が分からず、かつ文脈も分からず、何度も挫折した。
 
牧師に何度も質問したし、ネットで検索したりもした。
 
けれど、結局腹落ちさせるために必要なのは何度も読むことであった。
 
1つ1つの言葉の難しさを気にすることなく、全体を掴もうとすること、分からないところは今はまだ分からなくていいのだと言い聞かせて、気にせず先に進むこと。
 
今では完璧に理解している、という訳ではない。それでもこれがメシア預言であると確信できるようにはなった。
 
メシアがなぜこの世に来られたのか。なぜ罪を背負って死なれたのか。
 
この問いに答えているのが、今回の聖句である。
 
ここでパウロが真理の解き明かしをしている。
 
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられる。
 
原罪、つまり罪の性質があることを認める。罪の奴隷からの解放のためにキリストが罪を背負う、これが罪の転嫁。転嫁した罪はキリストの死によって贖われ、キリストの復活によって聖なる者とされる。
 
こうした神の愛による赦しと救いが、今も連綿と続いている。
 
それに預かるかどうかは、私たちの自由意志である。

求めよう

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あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。
 
ヤコブの手紙 1:5
 
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前回は三浦綾子の「氷点」から原罪について考えた。
 
原罪は生まれながらに誰もが持っている罪のことで、それは、意識していないのに自然とそうなってしまう、という罪の傾向性を指す。
 
このことは、エデンの園にいたアダムとエバが、食べてはならないと言われた木から食べたことに端を発する。
 
このとき、この木から食べてはならないと忠告された木こそ「善悪の知識の木」であり、食べたことで二人は目が開かれた。
 
神である主は言われた。
 
見よ、人はわれわれのうちのひとりのようになり善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ永遠に生きることがないようにしよう。
(創世記 3:22)
 

 
こうして私たちは原罪を宿し、知識を手に入れた。
 
が、その知識ははたして善悪の知識、つまり、善悪を判別したり見分けたりすることのできる知識であるだろうか。
 
聖書を読んでいても、アダムとエバの息子であるカインとアベルの殺人事件、ノアの時代には人間全体が堕落し裁きを受ける。その後、アブラハムの時代も、モーセの時代も、ダビデの時代も、人間が善悪を見分ける知識を持っていたとはとても思えない。
 
私たちは原罪を受けたことで知識を手に入れたと思っていたら、そうではなくて、手に入れられなかったのである。
 
哀れすぎるではないか。
 
その哀れな人間のために、神はいけにえによって恵みを施された。
 
楽園エデンを追放されたアダムとエバに「神である主は、皮の衣を作って彼らに着せられた」とある。
 
皮の衣、すなわち動物を屠り、毛皮を与えた、これがいけにえの始まりである。血による贖い、罪の赦し、神の恵みの原型はここにある。
 

 
哀れな人間を憐れんだ神は、ひとり子イエスの十字架の死によって、血による贖いを終えられた。
 
罪の赦しはイエスを信じ受け入れる信仰によって、私たちの救いはこの信仰と神の恵みによって成るということが、イエス以降の新約(新しい契約)時代に生きる私たちへの神の約束である。
 
だから、今日の聖句でヤコブ(イエスの兄弟)が「知恵に欠けている人がいるなら…」と言っている対象は、どこかの誰かではなく、すべての人を包含する。
 
時代を問わず、国を問わず、誰もが対象となる。
 
だから「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます」という勧奨は、すべての人に向けられているのだ。
 
神は求める者に与えてくださる。
 
そう、この真理はイエス自身も語っている。
 
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
(マタイ7:7)
 
躊躇なく神に求めよう。