あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。
ヤコブの手紙 1:5
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前回は三浦綾子の「氷点」から原罪について考えた。
原罪は生まれながらに誰もが持っている罪のことで、それは、意識していないのに自然とそうなってしまう、という罪の傾向性を指す。
このことは、エデンの園にいたアダムとエバが、食べてはならないと言われた木から食べたことに端を発する。
このとき、この木から食べてはならないと忠告された木こそ「善悪の知識の木」であり、食べたことで二人は目が開かれた。
神である主は言われた。
見よ、人はわれわれのうちのひとりのようになり善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ永遠に生きることがないようにしよう。
(創世記 3:22)
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こうして私たちは原罪を宿し、知識を手に入れた。
が、その知識ははたして善悪の知識、つまり、善悪を判別したり見分けたりすることのできる知識であるだろうか。
聖書を読んでいても、アダムとエバの息子であるカインとアベルの殺人事件、ノアの時代には人間全体が堕落し裁きを受ける。その後、アブラハムの時代も、モーセの時代も、ダビデの時代も、人間が善悪を見分ける知識を持っていたとはとても思えない。
私たちは原罪を受けたことで知識を手に入れたと思っていたら、そうではなくて、手に入れられなかったのである。
哀れすぎるではないか。
その哀れな人間のために、神はいけにえによって恵みを施された。
楽園エデンを追放されたアダムとエバに「神である主は、皮の衣を作って彼らに着せられた」とある。
皮の衣、すなわち動物を屠り、毛皮を与えた、これがいけにえの始まりである。血による贖い、罪の赦し、神の恵みの原型はここにある。
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哀れな人間を憐れんだ神は、ひとり子イエスの十字架の死によって、血による贖いを終えられた。
罪の赦しはイエスを信じ受け入れる信仰によって、私たちの救いはこの信仰と神の恵みによって成るということが、イエス以降の新約(新しい契約)時代に生きる私たちへの神の約束である。
だから、今日の聖句でヤコブ(イエスの兄弟)が「知恵に欠けている人がいるなら…」と言っている対象は、どこかの誰かではなく、すべての人を包含する。
時代を問わず、国を問わず、誰もが対象となる。
だから「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます」という勧奨は、すべての人に向けられているのだ。
神は求める者に与えてくださる。
そう、この真理はイエス自身も語っている。
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
(マタイ7:7)
躊躇なく神に求めよう。