聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

失われた者

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人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。


ルカの福音書 19:10

 

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失われた〇〇といえば?


ググってみると、10年とか20年とか30年とか出てくる。


予想通りだ。


失われた、とあるなら、では、それをどうやって取り戻すのか? が次の議論であろう。


現に、この国は失われた何年だかを取り戻そうと躍起になっている。しかし、スローガンとして掲げるのはいいが、何を取り戻すのかは実はよく分かっていないのが現実だろう。


個人レベルでも、例えばアンチエイジングだったら、失われた若さを取り戻せ! だし、都会の喧騒を嫌うのなら、失われた静寂を取り戻せ! となる。個人でも、取り戻すのはなかなか難しい。



聖書で「失われた=lost」というと、the lost sheep=迷える子羊、が思い浮かぶ。主イエスをshepherd=羊飼いとして、私たち罪深い人間を子羊と見立てるのだ。


羊飼いイエスは、行き先を見失い、希望を失った私たちを正しい生き方へと導き、光を与えてくれる。


「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われたイエスは、私たちの人生の良き導き手であり、救い主である。



さて、今日の聖句もイエスのことば。というより、イエスの宣言といえる。


エリコという街を通っていたイエスをひと目見ようとする、ザアカイという男がいた。


彼は、徴税人のかしらで、金持ちで、背が低かった。一休さんに出てくる庄屋さんみたいなイメージを、私は勝手に持っている。


税務署は今もあまり良く思われない節があるが、ザアカイはそのかしら、つまり税務署長で、rich manであったから、人々からは恐らく嫌われていたはずである。


エスを捜しに行ったが、人だかりのせいで見れない。背が低い彼のことを誰も助けてくれず、彼は急いで木に登って見ることにした。


木の上にいるザアカイを見つけたイエスは、驚いたことに木を見上げて彼に声をかけた。セリフを追いかけてみよう。


エス「ザアカイ、急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」


群衆「あの方は罪人のところに行って客となられた」


ザアカイ「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」


エス「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」


この話のキモは何か?


ザアカイがイエスを捜していたが、実はイエスがザアカイを捜していた、というパラドクスである。


私がイエスを見つけたと思っていたら、実はイエスが私を見つけてくれたんだ、という話である。


参りました、です。