イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ヨハネの福音書 14:6
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いきなり話が逸れるが、イエスが言う「彼」というのは、12使徒の1人トマスである。
先週はイースターだったから、復活のイエスについて書いたわけだが、トマスといえば、復活のイエスをすぐには信じることができなかった使徒である。
おかげで、疑い深いトマスという異名までつけられてしまったのだが、そこを引用しておこう。
…そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
(ヨハネ 20:25)
疑い深いというか、現実主義者なんだと思う。それだけイエスを喪失したことの悲しみが大きかったとも言える。
現に、復活のイエスに会ったトマスはすぐさま「私の主、私の神よ」と信仰告白をしたのだ。
自分の目で見ないと信じることのできないトマスのことを、私たちは決して批判できない。
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今日の聖句は、十字架にかかる直前、いわゆる最後の晩餐の場において、トマスが発した問いに対するイエスの返答である。
イエスが弟子たちに「わたしがどこに行くのか、あなたたちはその道を知っています」というと、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか」と尋ねた、とある。
リアリストのトマスは、きっとリアルに、イエスがどの道を通っていくのか知りたいと思って聞いたのだろうと思う。
イエスはそんなトマスのストレートな問いに対して、今日の聖句で返した。トマスはよくわからないまま口をつぐんだことであろう。
どの道を通って行くのですか?と聞いたら、わたしが道であると返されたのだから。
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この聖句は英語の方がよく伝わると思うし、実際よく目にする。
I am the way and the truth and the life.
いろんな解釈があっていいと思うが、私はこうとらえている。
道とはイエスの教え、真実とは信仰、いのちは文字通りイエスの歩まれた人生そのもの。
私たちは、イエスの教えに聞き従い、信仰を持って応答し、恵みに満ちた豊かな人生を送ることができる。
なんて幸いなことだろう。
復活のイエスを疑ったトマスが「私の神、主よ」と信仰告白したように、私たちもまた「私の神、主よ」と告白しよう。
主よ、あなたの道を私に教えてください
私はあなたの真理のうちを歩みます
私の心を一つにしてください
御名を恐れるように
(詩篇 86:11)