聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

キリストの平安

f:id:songchi0326:20191214095141j:image

 

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。


ヨハネ福音書 14章27節


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+


アドベントに入った前回は、旧約聖書イザヤ書に記されたメシア預言を取り上げた。


キリストは2回来ること。1回目は苦難の僕として私たちの罪を取り去るために来られたこと。今は、栄光の王として来られる2回目を待ち望む期間であること。そして、それらがイエスが誕生する700年も前に預言されていたことに驚いた。


クリスマスは、チキンやケーキを食べてプレゼントを貰う日ではなく、キリストの誕生をお祝いする日であることは、クリスチャンでなくとも一般に知られていることだ。


また、アドベントは、カレンダーやキャンドルが商品化されていることもあり、キリストの誕生を待ち望む期間であることも、まあ知られている。


しかし、2回目に来ることを待ち望んでいる期間でもあることは、どれくらい知られているだろうか。アドベントは再臨を待つ期間でもあるのだ。



私たちは再臨を待ち望み、すでに二千年が過ぎた。「私はすぐ来る」と言われてからずいぶん久しい。イエスはそれまで私たちにどうしていたらいいと告げたのか?


後の時代に、聖書というまとまった書物をもって、イエスの言葉や行動を時系列で細かく理解できる私たちと違って、当時のイエスの弟子たちは、すぐには理解できなかったと思う。


初臨も再臨も、イエスは明確に話しているにもかかわらず、おそらく難しかっただろう。なにせ初臨のイエスが目の前にいるのだ、それなのに、やがて天の父のところに戻り、そしてまた来ると言われてもにわかには信じられない。


見ている者が信じないことを、見ていない者が信じることは、さらにハードルが高い。それが現代だ。見えるものすら疑う者が、見えないものを信じることがどれほど難しいか。


だから、見えないものでも信じることができるよう祈るのだ。



エスは、また戻ってくるときまで、心を騒がせないように、そして、恐れないように、と告げた。


そのために、心を騒がせ恐れないために、平安を残すと。しかも、その平安は「わたしの平安」であると。


キリストの平安!


これこそクリスチャンの特権ではないか。キリストを知る、信じる、受け入れる。そして、キリストの平安を得る。


エスが言うように、その平安は「この世が与えるのとは違う」のだ。


心の平安を得るために…ネットで検索してみると


腹式呼吸をしましょう。
・適度な運動をしましょう。
・没頭できることをしましょう。
・地域の活動に参加しましょう。
・自分を表現しましょう。
・寛大になりましょう。
・感謝しましょう。


などがあった。興味深いね。


具体的に行動できるものもあれば、心のありようを求めるものもあり、なかなか簡単ではないと思う。


・聖書を読んでみことばに親しむ。
・心を鎮めて静かに祈る。
・感謝と喜びをもって賛美の歌を歌う。


私はここに平安を得る。