聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

忍耐、励まし、そして希望

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かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。


ローマ人への手紙 15:4


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かつて書かれたもの。


それは、聖書のことである。厳密に言うと、使途パウロが活躍していた時代には、まだ新約聖書はないから(この手紙がゆくゆくは新約になるのだが…)、ここで言う聖書とは、旧約聖書のことである。


それは私たちを教えるために書かれた。


当時の聖書は、死海写本で分かるように、大きな巻物になっていて、それをユダヤ人が集まる会堂(シナゴーグ)で声に出して読み上げていたらしい。


今なら、教室で先生が前に立って大きな声で本を読んでいる光景が、絵的には近いかもしれない。


このように聖書は、教え諭すために書かれたものであることは間違いない。



もう少し付け足そう。


この手紙の著者であるパウロが、弟子のテモテに宛てた手紙に、聖書の定義が書かれている。


聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
(第二テモテ 3:16)


聖書は人が書き留めたものであるが、聖書記者はすべて神の霊感に満たされて記したものであること。そして書かれた内容は、教え、戒め、矯正、正義の訓練に有益である、と。


簡単に言うと、正しい道に進むために聖書は有益だ、ということである。


私たちは罪の性質を負って生まれてきたから、簡単に道を逸れる。悪しき道にすぐに染まる。


そのとき180度方向転換させてくれるのが聖書だ。この方向転換のことを悔い改めと言う。


けれど悲しいかな、一度のみならず、何度もこうした経験を重ねる。失敗しては悔い改め、を繰り返す。



神を陶器師、私たちを器に例えることがある。ロクロの上をくるくるまわっている私たちは、よじれたりヒビ割れたり不格好なものである。


それを神さまが諦めることなく、ときに励まし、ときに慰め、声をかけながら忍耐強くこねてくださる。そうして私たちは形造られていく。


そう思うと、今日のみことばにある「聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続ける」ことが真実であると同時に、神さまもまた、忍耐と励ましと希望を持って私たち人間を導いてくださっていることに気付く。


どちらも真なり。


神さまが、尽きることなく忍耐し励まし続けてくださるから、私たちは希望を持ち続けることができる。


「土の器」を賛美したくなる。
https://youtu.be/THYEz10LphM