聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

空を見上げて

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私は山に向かって目を上げる。
私の助けはどこから来るのか。
私の助けは主から来る。
天地を創られたお方から。
 
詩篇 121:1-2
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
娘が小学生の頃、教会の日曜学校でよく賛美していた「山を見上げて」という曲がある。
 
この曲の歌詞の出所が、今日の聖句である。


https://youtu.be/lg3r6GzSBs8


山を見上げて、とあるが、残念ながら東京からは山が見えない。郊外に行けば眺められるが、都心にいると見渡そうにも建物ばかりでなんともならない。
 
山を見上げて、とあるが、そういえば高校生のとき、学校帰りに稜線に沈みゆく夕陽を眺めながら自転車を漕ぐのが好きだった。
 
清少納言は「夏は夜、秋は夕暮れ」と言ったが、夏の夕暮れも捨てたもんじゃない。自転車で風を切るときなんて実に心地がいいものだ。
 
それなのに、山を見上げながら、高校生の私は「東京に行きたい!」と、田舎からの脱出を切に望んでいたのだけど。
 

 
話が逸れた。
 
さて、どうしてこの聖句なのかと言うと、別に田舎の山のことを思い出したかったのではなく、つい先日、聖句と同じ気持ちを私も味わったからだ。
 
ようやく修士論文を書き終えた。提出を終えて、学校から外に出て空を仰いだ。周りに山はないから、グッとあごを持ち上げ真上を見上げた。
 
夏の夕暮れの少し前。まだまだ夏空が広がっていて、真っ白な雲が見えた。
 
ずっと取り組んでいた論文が終わり、でも終わったことが信じられず、かつ自分がやり遂げたということも信じられず、それでも空を見上げて確信したこと。
 
神さまが助けてくれていた、励まし導いてくださっていた、ということ。
 
私の助けは主から来ていた、ということ。
 

 
誰に強いられたわけでもなく、一昨年の秋から大学院に通うことにした。確固たる問題意識はあったものの、在学期間中は仕事との両立が思っていた以上に大変で、学んでいることの目的を見失いそうだった。
 
MBAなんか取っても意味ないんじゃないか? この先の自分のキャリアに役に立つのか? 費やした経済的コストを回収できるのか? 自分の中に巻き起こるいろいろな疑念が幾たびも襲ってきた。
 
特に2年目、ゼミが始まったタイミングで、営業部門から新設のマーケティング部門に異動になり、気持ちに余裕がなくなった。
 
教会においては、役員の務めも賛美の奉仕も凍結した。日曜の礼拝への参加も滞りがちであった。
 
そんなときでも神は私を見捨てず、助け、励ましてくれた。実際、提出前1週間でいっきに論文が仕上がっていくところ(内容はともかく)などは、自分以外の力が働いていることを感じていた。
 
おこがましいことを言えば、聖書記者たちによって「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもの(第二テモテ3:16)」であるように、自分の手を離れたところでコトが成ったという実感である。


私の助けは主から来る。天地を創られたお方から。ハレルヤ!