しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそが、大きな利益を得る道です。
テモテへの手紙第一 6:6
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大きな利益を得るためには、満ち足りる心を伴った敬虔さが必要だ。
この聖書箇所を礼拝で朗読した。
さらっと書いてあるが、立ち止まって眺めてみると、いまいち腹落ちできていないかもと思い、読み返すことにした。
このように、この箇所はどんな意味があるのだろうと疑問に思うときは、その前後をじっくり読んだり、他の訳をあたったりする。
使徒パウロが、ギリシアのエフェソス(エペソ)の教会を指導するようにと留め置いたテモテに宛てたのが「テモテへの手紙」だ。
手紙にはパウロのテモテに対する深い愛情が溢れていて、指導者としての務めや激励が詰まっている。
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この聖句は「しかし」で始まっているから、その前に書かれていることの反対意見である。
前を読んでみる。
すると、エペソ教会の堕落ぶりが書かれていて、それを受けての6節だったと分かる。
・主イエスの健全なことばと教えに同意しない者がいる。
・それは高慢で、何ひとつ理解しておらず、議論やことばの争いをする病気にかかっているから。
・そこから、妬みや争い、罵り、邪推、絶え間ない言い争いが生じる。
・これらは、知性が腐って真理を失い、敬虔を利得の手段と考える者たちの間に生じる。
「敬虔」は他の日本語訳では「信心」と訳されており、敬虔を利得の手段と考えるとは、宗教を金儲けに利用するということである。
聖書には、神殿で商売をする(しかも悪徳商法)者たちにイエスが激怒する場面も書かれている。
現代では新興宗教がまさにそうだろう。お布施でいくら、祈祷でいくらと価格が決められていて、ひどいときはそれにランクまで付いている。
信じる者は救われる、ではなく、金を積んだ者は救われる、と言わんばかりである。もちろん、そこに救いはない。
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後ろも読んでみる。
・私たちは、何もこの世に持って来なかった。
・何かを持って出ることもできない。
・衣食があれば、それで満足すべきである。
先だって逝去された稲盛和夫さんを思い出す。
稲盛さんはクリスチャンではないが(しかし故郷の西郷隆盛を尊敬し「敬天愛人」を掲げていたから通ずるものはあるだろう)、托鉢行脚して辻説法をしていたから、信心深い人であったことは間違いない。
稲盛さんの著書を読むと「足るを知る」「利他の心」が出てくる。これはまさに、満ち足りる心を伴うということである。
満ち足りる心を伴う信仰心(敬虔)によって、私たちは大きな利益を得ることができる。
利益とはもちろん金銭的なものではなく、神を信じ、神に愛され赦され、救いに導かれたことへの感謝と喜び、そしてそれに応答しようとする生き方そのものではないかと思う。