神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。
ヨナ書 3:10
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
ヨナ書は4章しかない短い預言書だ。
しかし、そのユニークな内容とショッキングな展開は、読む者の記憶に深く残される。
1章では「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ(1:2)」と、ヨナは神から召命を受ける。が、それに逆らって船に乗って逃亡する。
「ところが、主が大風を海に吹きつけられたので、激しい暴風が海に起こった。それで船は難破しそうになった(1:4)」ため、ヨナは海に投げ込まれてしまう。
ヨナを投げ込むと途端に海が凪いだので「人々は非常に主を恐れ、主にいけにえを献げて誓願を立てた。主は大きな魚を備えて、ヨナを吞み込ませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた(1:16-17)」。
という話である。
魚の中で神に祈り叫んだヨナは、三日後にようやく陸地に吐き出された。ヨナの祈りにこたえ、ヨナを魚から吐き出させた神は、再びヨナを召命する。
「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ(3:1-2)」
一度失敗したとしても、悔い改めのときまで神は忍耐強く待っておられ、悔い改めると神は再び語りかけてくれる。
*
先週の礼拝で私は司会を担当した。旧約聖書の朗読箇所がヨナ書の3章であった。
朗読に備えてヨナ書を1章から丁寧に読んだ。そこで感じたことは、神の召しから逃げ出すヨナへの同情と、そんなヨナを忍耐強く待たれた神の憐れみであった。
3章では、ニネベに到着したヨナが、神の滅びのメッセージを告げる場面が描かれている。
ニネベの人々はどう反応したのか?
驚いたことに「もしかすると、神が思い直して憐れみ、その燃える怒りを収められ、私たちは滅びないですむかもしれない(3:9)」と、あっさり悔い改めたのだ。
そして今日の聖句「…そして神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった」につながる。
放蕩息子と父の例話を思い出す。
ヨナ書はここで終わってもよかった。神からの滅びの宣言を受けてニネベが悔い改めて神を信じた。それによって神の裁きを免れた、めでたしめでたしと。
ところが、続きの4章がある。
*
4章では、悔い改めて滅びを免れたニネベを見て、あろうことかヨナが怒る。不愉快になり、神に不平不満を述べる。もう死んだ方がましだと自暴自棄になる。
裁きが下るから悔い改めよと言われたニネベが悔い改めたことで裁きを免れた。このことによりヨナの預言は無効になるというパラドクス。
ヨナの預言者としてのプライドが傷ついたのだろう。
自尊心が損なわれると、私たちはショックのあまり怒りに身体を震わせる。ヨナの怒りはまったく他人事ではない。
それからヨナと神との問答が続く。駄々をこねる子どもを優しく諭す親のように、神は忍耐強くヨナに語り、無条件の神の愛、計り知れない神の愛を教える。
ここで再び、放蕩息子の例えを思い出す。今度は、放蕩息子の兄と父のことである。
悔い改めて戻ってきた放蕩息子(弟)を父が無条件の愛で受け入れたのを見て「兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた(ルカ15:28)」
兄のプライド、ヨナのプライド。怒りに身体を震わせる。2人が重なって見える。
しかし、神はそんな2人をも無条件の愛で寄り添ってくれる。一緒に喜ぼうではないかと、肩を叩いてくれる。
ローマ人への手紙12章にある有名な聖句「喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい(ローマ12:15)」にあるように、私たちはともに喜び、ともに泣くことで、神の愛を学ぶ。
プライドはある、嫉妬心もある、優越感もある。それでも、一緒に喜ぼう。一緒に泣こう。神の愛に少しでも近づいて生きていこう。