だれも自分を欺いてはいけません。あなたがたの中に、自分はこの世で知恵のある者だと思う者がいたら、知恵のある者となるために愚かになりなさい。
コリント人への手紙 第一 3:18
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自分は知恵ある者だと思うこと。
これは自惚れであり、自分を誇ることである。この性質は誰もが宿しているのではないか。
少しでも人に勝るところがあれば、それは知識に限らず、見た目の良さや体力などにおいてもそうであるが、誇らしげになるものだ。
今日の聖句で使徒パウロは、知恵ある者になるためには愚かになりなさい、と語る。
このパラドクスはパウロ自身が身をもって体験したことであり、経験から導き出した真理である。
誰よりも強くなりたければ誰よりも弱い者であること。誰よりも偉くなりたければ誰よりも低い者であること。
聖書を読めばパウロがどれほどの経験をしたかが綴られているし、サーバントリーダーを説いたイエス自身も自らの生き方を通してこのことを示された。
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自らを誇ることの罪について、パウロは別の箇所でこう述べている。
私たちは限度を超えて誇りません。神が私たちに割り当ててくださった限度の内で、あなたがたのところにまで行ったことについて、私たちは誇るのです。
(第二コリント10:13)
割り当ててくださった限度内で誇るって、やや皮肉っぽい表現だなと思う。
つまりは、身の丈で誇るということではないか。
身の丈に合った自惚れ、これぞまさに愚か者の代表みたいなものではないか。
でもそれくらいでちょうどいいのかもしれない。
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旧約聖書から二箇所引用する。
パウロの皮肉もなければ、イエスの解釈もない。よって、ストレートに刺さる。そして厳しい。
誇り高ぶる者たちは
御目の前に立つことはできません。
あなたは不法を行う者をすべて憎まれます。
(詩篇 5:5)
──主はこう言われる──
知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
力ある者は自分の力を誇るな。
富ある者は自分の富を誇るな。
誇る者は、ただ、これを誇れ。
悟りを得て、わたしを知っていることを。
わたしは主であり、
地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。
まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。
──主のことば。
(エレミヤ 9:23-24)
日本にも「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉がある。驕り高ぶらない謙虚さは日本人の美徳でもある。
似ているようで実際は異なるわけだが、クリスチャンは単に自分を誇らない生き方を目指しているのではない。堂々と誇るべき存在を持っている。
愚かになることは怖くない。誇るなら主を誇ろう。