私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
ローマ人への手紙 7:24
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善と悪、肉体と霊、死とよみがえり、罪と赦し、罪の律法と神の律法。
この難解なローマ7章で、パウロは二項対立を繰り出して、神がイエスを通して結ばれた新しい契約(つまり「新約」)について説明してくれる。
説明してくれるが、それでも難しいことに変わりはない。
パウロの手紙によって、キリスト教の神学は形成され、ローマに広まったことで、キリスト教は世界宗教となって、2000年以上に渡って信仰者を生み出した。
その偉大なる立役者であるパウロが「私はみじめな人間」だと言う。
だがパウロは「私は本当にみじめな人間です」なんてデスマス調で丁寧に話していない。英語を見れば、What a wretched man I am! そう、感嘆文なのだ。
どうしてこんなすました日本語にしてしまうのだろう。前回同様、新共同訳を見てみたが、こっちの方がはるかに雰囲気が出ていていい。
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(新共同訳)
せめてこれくらいのテンションで語らせないと、と思う。
では、このように激しく嘆いたそのワケを、何節か前に遡り、パウロの独白に迫ることで探っていきたい。
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私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。
私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。
私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住んでいる罪です。
そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。
私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。
(ローマ 7:18-23)
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何度読み返しても難解だ。
パウロはもともとパリサイ派というユダヤ教の律法学者であった。イエスが宣教している期間は、キリスト教迫害の急先鋒として悪名を轟かせていた。
そんなパウロが復活のイエスに出会い回心(改心)した。それからのパウロは、今度は迫害される側に転じたが、怯むことなく最後の最後まで命を賭してキリストの奥義を説き続けた。
その根底には、逆境になればなるほど強くなる、パウロの根底には、惨めさの自覚があったに違いない。人知れず苦しみを抱えていたに違いない。
なんて惨めなんだ!と言ったあとに、誰が死のからだから救い出してくれるだろう?と続けたこの疑問文は、いわゆる修辞疑問文である。
救い主とはイエスその人であり、私たちを死から救い出して(解放して)くださる。パウロにはその確信があった。
最後にパウロがコリントの人々に宛てた手紙を引用する。これを読んで、今日の聖句を噛み締めたい。
ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
(第二コリント 4:16)
ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
(第二コリント 12:10)
惨めさもまた、神を証しするために必要な糧である。