互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。
ローマ人への手紙 12:16
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苦しいときの神頼みというように、私たちは窮地に立たされたり苦難の中にあるとき、神を仰いですがりつく。
旧約聖書を読んでいると、イスラエルの民がまさにその連続であったことが記されている。
しかも、自ら進んで窮地を作り、苦難を導き、神の怒りをかっている。
士師記が顕著だ。
たとえば2章には「彼らは、エジプトの地から自分たちを導き出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、すなわち彼らの周りにいるもろもろの民の神々に従い、それらを拝んで、主の怒りを引き起こした」とあり
その結果「イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた」と、すがりついて救われるのである。
物事が上手くいっているときは神を忘れ、ひとたび風向きが悪くなれば神にすがる。
士師記にはその連続が延々書き連ねてあり、その度に神は救助者(それが士師=Judges)を起こされた。その数なんと12人。有名なサムソンやギデオンも12人の士師の1人である。
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今日のローマ人への手紙12章で、パウロが驕るな、高ぶるなと命じているのを読んで、士師記の頃のイスラエルを思い出し取り上げた。
この聖句は日本語で読むと、命令なのになんとなくソフトな印象を与える。それは、敬体(~しなさい、~してはいけません)だからだろう。
一方、英文を見ると、畳みかけるように命令文が並んでおり、日本語とは違う印象を与える。パウロの激情が伝わってくるのだ。
英文を見てみよう。
4つの命令文で構成されており、肯定の命令文と否定の命令文が交互になっている。
【肯定の命令文】Live in harmony with one another. 「互いに調和を保て」
【否定の命令文】Do not be proud. 「いばるな」
【肯定の命令文】Be willing to associate with people of low position. 「立場の弱い者と協調せよ」
【否定の命令文】Do not be conceited. 「うぬぼれるな」
これはまさによく湯呑みに書かれている「親父の小言」の世界、である。
もしかしたらこの命令も、ローマの人たちに対する「パウロ親父の小言」、つまりぼやきなのかもしれない。
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パウロはこのぼやきに続けて、こう語る。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言います。思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深く考えなさい。
これはぼやきではなく、諭しである。パウロの親父としての優しさが溢れ出ているのを感じる。
私たちはそれぞれに与えられた恵み(賜物)によって、節度を保った生き方を求めるべきである。
度を越した振る舞いはせず、分をわきまえ慎み深く生きる。
これもたしか親父の小言にあった…「何事も身分相応にしろ」だ。
やはりパウロのゲキと親父の小言は根っこが同じなのか通底する想い、自分の子どもたちに正しく生きてほしいと願う気持ちが溢れているのだろう。
なんとも不思議な気付きを得たところで、今日はおしまい。