聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

召しと交わり

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神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。
 
コリント人への手紙 第一  1:9
 
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召されるとか、交わるって、キリスト教用語だと思う。
 
言葉としては知っていたが、信者になるまで普段使いすることはなかった。
 
「召す」は「召し上がる、お召し物、(風邪などを)召される」のように、「食べる、飲む、着る」といった何かを身に受け入れるときに使用する敬語である。
 
しかし辞書を引くと、もう1つの意味があった。それは「(殿が)お召しです」のように、目上の者が呼び寄せるときの敬語であった。
 
聖書で「神に召される」と言うときは、こちらの意味だ。なるほど、つまり「召す」はキリスト教用語なのではなく、古語だから現代に馴染まないだけであった。
 
調べついでに「召」の漢字の成り立ちも見てみた。すると「刀+口」とあり、「刀」はもとは人が屈んだ姿を表し、後に神秘の力を持つ刀に転意した。そして「口」は祈りのこと、とあった。
 
やはり中国においても「召す」ことは神と人との関係で用いられたのだ。
 

 
私たちは誰もが神から召されて(calling)いる。つまり神から呼ばれている。手招きされている。
 
けれど、それに気が付かないだけ。
 
神の存在は一般啓示として、誰にでも示されている。旧約聖書詩篇を見てみよう。
 
天は神の栄光を語り告げ
大空は御手のわざを告げ知らせる。
昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す
話しもせず語りもせずその声も聞こえない
しかしその光芒は全地に
そのことばは世界の果てまで届いた
神は天に太陽のために幕屋を設けられた。
詩篇 19:1-4)
 
神の創造、すなわち被造物(creature)を見れば、疑う余地なく神の意図を感じる。人間は何千年もかけて神の神秘(mystery)を見つけては科学的発見と言って自らの知恵を誇ってきた。
 
その知恵すら神から与えられた賜物であることをすっかり忘れて。
 

 
神からの召しに応じた人は、イエスとの交わりに加わる特権に預かる。
 
召しに応じるとは、呼ばれたら「はい」と手を挙げて返事をするということだ。
 
聖書では、預言者サムエルが召されたシーンが思い出される。第一サムエル記3章4節には、主はサムエルを呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と答えた、とある。
 
私たちも神に招かれたら「はい、ここにいます」と即答したいものだ。
 
エスとの交わり(fellowship)の最もわかりやすいのは、教会での礼拝に参加することだ。
 
礼拝参加を通して、聖書を読み、賛美を歌い、祈りに心を合わせる。こうした行為がイエスとの交わりである。
 
いまはコロナで教会での礼拝参加が難しいこともある。しかし、私たちは教会でなくとも、たとえばクルマで、電車で、会社で、寝室で、キッチンで、どんな場であっても、聖句を口にするそのときに、賛美を口ずさむそのときに、祈ろうと「天の父なる神さま…」と言うそのときに、交わりに加えられているのだ。
 
神の召しに応じて、交わりに加わる。そこに心の平安がある。