もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。
創世記 4:7
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怒りに震える出来事があったと、前回述べた。
それにしても、厄介だった。怒ってもいいが、怒ったままでいてはならないなんて、これは試練であった。
怒りは抱え続けていると罪に支配されるが、持ち越すことなく、なんとかこの1週間を過ごした。
相手に対する怒りは憐れみに、憐れみは赦しに変えられると、示されたこのプロセスのようにはなかなか行かない。
しかし、今回の出来事を通して、自らが神の怒りに触れ、憐れまれ赦された者であることに気付くことができた。これは、大きな収穫、いや、それこそ試練を乗り越えるために与えられた経験であった。
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さて、創世記4章は、聖書に記された最初の兄弟、最初の礼拝、最初の殺人の記録である。
兄カインは地を耕す者として収穫物を持って、弟アベルは牧畜を営む者として初子の中から最上の羊を抱えて、それぞれ神にささげた。
ところが神は、弟アベルのささげ物にだけ目を留められた。
神は肉を好み野菜が苦手とか、そんなことではもちろんなく、神はささげる者の心を見られたのであろう、その行為ではなく。
神に認められなかった兄カインは、あろうことか神に対して怒る。なぜなのか! なぜ弟のささげものにだけ目を留めるのか! と。
そこで神がカインに告げたのが、今日の聖句である。
ここではじめて、罪という言葉が使われる。正しいこと、良いこととの比較として、しかも擬人的に使われる。罪が恋い慕う、と。
結局、カインは罪の虜になり、神への怒りの矛先をアベルに向け、殺人を犯してしまう。
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創世記3章には、アダムとエバの、いわゆる禁断の果実の話がある。罪の性質はカインに始まったのではなく、アダムとエバから繋がっていることが、文脈から読み取れる。
こうして罪の性質は人類すべてに受け継がれ、あなたにも私にもしっかり組み込まれている。
罪、つまりサタンは、今も私たちを恋い慕って、陥れるチャンスを虎視眈々と狙っている。
怒りに我を忘れ、怒りを抱えたままでいると、罪の性質によって、簡単に罪の虜になる。
では、どうすればよいか?
私たちには二千年前、イエスキリストが与えられた。キリストは私たちの罪を贖う。支払うべき罪の代償を、すでに完済している。
このことを信じ受け入れることだ。
私たちは罪の支配下に置かれるのではない。キリストによって罪を支配するのである。私たちは、信仰と恵みによって、固く立つ存在である。
…神はそんなカインさえ憐まれた。