アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
コリント人への手紙 第一 15:22
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イースターは毎年日にちが異なる。
というのも、春分の日が過ぎて最初の満月、の次の日曜日と定められているから。
3月になることもあれば、今年みたいに4月中旬になることもある。いくら三寒四温と言っても、今年のイースターは寒かった。子どもたちの恒例イベント、エッグハントも大変だっただろう。
イースターが復活祭であること、復活したのはイエスキリストである。恐らくキリスト教に詳しくない方でも、これくらいは知っていると思う。
こんなにイースターがイベントとして認知されているのだから(ディズニーの影響が存分にあるのだけど)、もう少しその意味や、いまを生きる私たちへの適用を知っていてもいい。
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イエスキリストが十字架で死んで、墓に葬られ、3日目に復活して…という話を、仮に知っていたとしても、知識としてだけでなくそれを歴史的事実として捉えているか?
これが最初の問い。
いやそんなのでっちあげでしょとか、作り話でしょとか、信じられるわけないでしょとか、こうした反応からは先に進めない。
と、偉そうなことを言うが、かく言う私も同じ反応であったから、よくわかる。
しかし、ここを乗り越えないとイースターの意味はもちろん、聖書的な世界観を理解することはできないから、避けて通れない。
これまた個人的な経験なのだが、どうしたら歴史的事実と信じられるのか?とか、疑うことなく信じられるのか?といった、いわゆるハウツーを聞きたくなるものだ。
…残念なことに、それはない。
信仰は誰に与えられるでもない。神は私たちに自由意思を与えたのだから、私たちは選択することができる。その選択が誤りなきものであるように、正しく信じることができるように、その助けを求めるのみだ。
信じたいなら、信じさせてほしいと、祈るしかないのだ。
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次の問いは、今日の聖句のこと。
アダムとキリスト、そして生と死、のこと。
創世記に書かれた最初の人アダムは、妻エバとともに犯した罪によりその代償として死が与えられた。
と書くと、では最初、死は存在しなかったの?となるが、その通りはじめ死は存在しなかった。このことを最初知ったときは、心底驚いた。死がない世界があったとは。そして、それが聖書にあるということは、世界のキリスト教信者はみな知っていたのか!ということにも驚いた。
しかも、聖書にはキリストが復活したことも書かれているわけだから、そして、それを信じる者は永遠のいのちを得ることが書かれているから、古今東西のキリスト教信者はみな、そういう世界観を持って生きていたのだ。
アダムの犯した罪によりすべての人間に死が与えられた。その罪をイエスキリストが十字架上で身代わりになって贖って(代価を払って)死に、墓に葬られたが、死を克服し、死から復活し、生きて天に帰られた。まとめると、私たちはアダムによって死が与えられ、イエスによって死から解き放たれ新しいいのちを得た、ということである。
パウロが今日の聖句で「すべての人はキリストによって生かされるのです」と言うのはそのためなのだ。
だから、キリスト教三大行事として、クリスマス、ペンテコステ、イースターとある中でも、イースターがとりわけ特別なものなんだと思える。タマゴの殻は、罪や死のメタファーで、色鮮やかなペイントは、傲慢さや欲の深さを感じる。そして、その殻を打ち破ることは、死を克服して新しいいのちを得ることにつながる。
子どもたちが楽しそうにエッグハントをしてタマゴ(実はプラスチック製で中にはチョコやキャンディが入っている!)を抱えている姿を眺めながら、イースターを祝う。