そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
創世記 3:6
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原罪という言葉を知ったのは、三浦綾子の「氷点」だった。
この世で生きていく中で私たちはさまざまな罪を犯すが、その一番最初の罪を原罪という…のではなく、私たちが、生まれながらに持っている罪、それを原罪という。
生まれながらということは、自分はもちろん、あの人もこの人も誰も彼もが罪人。どんな聖人君子も偉人も権力者も皆、罪人というとになる。
「義人はいない。ひとりもいない」と聖書にあるように、罪のない人はこの世に1人もいないのである。
だからと言って、あぁそうですか、生まれながらに誰もが罪人なんですねと、なんの抵抗もなく受け入れられるかと言うと、それはまずない。
生まれながらって、それでは人間はあまりに可哀想ではないかと思うだろう。
反発したくもなる。
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感情的になるのを少し抑えて、聖書を一番最初から読んでみる。
旧約聖書「創世記」には世界の始まりが記されており、2章からは人類創造が始まる。誰もが知っているアダムとエバ、そしてエデンの園、の話である。
3章になると、蛇が登場しエバへの誘惑があり、神との約束を破り、そしてエデンの園を追放される「失楽園」の話が展開される。
神がアダムに対して「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるときあなたは必ず死ぬ」と命じる。
しかし、蛇に唆されエバが食べ、そしてアダムが食べる。
この罪が原罪、である。
食べてはいけないと命じられたものを食べたから、約束を破ったその罪が、原罪としてその後のすべての人間に及ぶって?
と思うだろう。
見方を変えない限り、原罪がなんであるかは見えてこない。
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ここでのポイントは約束を破ったこと=罪、ではない。
もちろん神への不従順は罪ではある。しかし、約束を破ったという「行為」に罪の源泉があるのではなく、「行為」に至った、どうしてもそうしたいという「感情」に支配されることに源泉がある。
日本昔ばなしのツルの恩返しと同じように、私たちは「してはいけません」と禁じられると、それをこじ開けたいという思いに駆らてしまう。
これが原罪といえばわかりやすいかもしれない。
そしてそう捉えれば、生まれながらに誰もが持っているということにも合点がいくだろう。
この、どうしてもそうしたいと思う感情のことを「罪への傾向性」と説明されているのがわかりやすかった。
◉聖書入門.com
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では今日の結論。
私たちは誰もが罪への傾向性があることを認める。認めているのだから、傾向性に流されないようにしたい。そのためにキリストに繋がる。そうすることで傾向性を断ち切ることができる。
これが救い。
救いを受ける権限はすべての人に対して等しく与えられている。いつでも繋がることができる。イエスキリストはいつでも私たちが立ち返って繋がることを願っている。