怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。
エペソ 4:26-27
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久しぶりに怒りに震えた。
怒ることはよくある。私はふだん温和に振る舞っているが、もともとは血の気の多い人間だと自覚している。
信仰を持つ前、特に10代後半から20代の頃はよくキレていた。絶えず何かに不満で、不満そうにしていることがカッコいいと勘違いしていた。
信仰を持ってからは、怒りをなるべくコントロールするように心掛けてきたし、たとえ怒ってもすぐに気持ちを切り替えるように努めてきた。
しかし今回はムリだった。怒りのマグマが自分の奥底からいっき湧き上がり、それを抑えることができなかった。大声で怒鳴りたくなったが、それはなんとか堪えた。しかし、堪えたせいか、身体が震えて止まらなかった。
どうしたらいいか分からず、祈っても聖書を開いてもダメだった。
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今日の聖句は、そんな私に与えられた。
怒ることは罪ではない、しかし、怒りを持ち越したり放置したりすることは罪だ。
なぜなら、怒ったままでいると、自分は間違っていない、自分が正しいと思う気持ちが増幅し、そこに大きな隙ができるからだ。
怒りを抱え続けていると、心に悪がはびこり、怒りが憎しみになり、自分を見失う。罪が戸口で待ち構えている。サタンが手招きしている。
怒りに我を忘れそうになったが、罪に絡め取られないために、なるべく早く怒りを自覚することを心掛けた。
自分が怒っている、しかも制御できないくらい相当に怒っている、そんな自分を俯瞰し、客観的に認識することにした。
これでいくらか冷静になれる。
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詩篇を読むと、4篇にこう書いてある。
あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい。(詩篇 4:4)
怒りを自覚し、サタンの手招きにも応答せず、罪を犯さないで済んだとしよう。
怒りの感情は日にち薬のように、徐々に薄れてはいく。しかし、それでおしまいにはならない。
解決したと思って油断していると、実は心の奥底に潜んでいて、ただ見えなくしていただけだったりする。
そこで祈る。
祈ったらこうなった。
怒りは憐れみに、憐れみは赦しに。このプロセスが示された。自分の内側に向かっていたベクトルが、外側に向いた。外に向くときに、怒りは憐れみに変えられた。
そうだった。
神の怒りを受け続けたわたし自身が、神に憐れまれていたのだった。憐れまれ赦され、だから今の自分が存在するのだった。