聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

慎ましさ

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静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる。
 
‭‭詩篇‬ ‭46:10‬
 
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慎ましやかに暮らすって、日本人の美徳だと思う。
 
ここで少し掘り下げて「慎ましい」って聞くとどういうイメージ、印象があるだろうかって考えてみる。
 
すると、もしかしたら、本来の意味からややズレた形で使われているのではないかなと思えてきた。
 
辞書で「慎ましい」を引くと
 
(1) 遠慮深い態度である。控えめで、しとやかだ。
(2) ぜいたくでないさま。質素なさま。つましい。
(3) 人に対して、気後れがする。気恥ずかしい。
 
(3)の意味は知らなかった。調べてみると、古典の世界にあった。これは面白い、ちょっと寄り道してみよう。
 
出典は「源氏物語」の第一帖「桐壺」、光源氏が12才で元服する場面…
 
「大臣気色ばみ聞こえ給ふことあれど、物のつつましき程にて、ともかくもあへしらひ聞こえ給はず」
 
同じ日本語とはいえ、さすがにパッと読んですぐに理解できるほど古典の素養はない。

 

そこで、国語の教員免許を持ち、卒論のテーマが「源氏物語」だったと言う妻に質問してみた。さすが自称平安女子、すぐさま背景知識や場面の補足説明をしてくれた。


・大臣 左大臣のこと。この人の娘である葵を光に嫁がせようとしている。
・気色ばみ (大臣が光に)寝床にいくようそれとなくほのめかし
・物のつつましきほどにて (光は)なんとなく 気恥ずかく感じる年ごろで
 
面白い。平安のプレイボーイもはじめはこんなシャイなところがあったのだ。
 

 
すっかり横道に逸れた。
 
現代では「慎ましく」暮らしているというと、贅沢せず質素倹約をして生活をしているということなのだが、もう少し裏の意味がある気がしていて、それは、金にこだわるとか、ケチとか、そういうネガティブで嫌味な意味づけである。
 
「最近、あの人は誘ってもなかなか一緒に遊んでくれないよね」
「そうそう、なんだかすっかり慎ましく暮らしちゃってるよね」
「若いころは派手に遊びまくってたのにね」
 
なんていう文脈で使われると、慎ましさの使い方が間違っているのではないかと思えるが、こう書いている私自身が不思議に思わないのだから、それくらい本来の意味がねじれてしまっているのだと思う。
 
ここで思うのは、では、クリスチャンにとっての「慎ましさ」って何だろう?ということ。
 

 
ようやく今日の聖句につながった。
 
クリスチャンにとって「慎ましく」暮らすとは、神に委ねて生きる、ということである。
 
娘が高校受験で、ちょうどこのような話をしたところだ。
 
「直前の5日間は学校に行かず、毎日朝から図書館に行って、本当によくがんばったね~」
「うん、やることは全部できたと思う。あぁ合格したいなぁ」
「そうだね、合格できたら嬉しいよね。でも自分で努力できることはやりきったんだから、あとは神さまに任せよう」
「もしダメだったら…?」
「それでも神さまに感謝しようよ。こんなに頑張れる機会を与えてくれたこと、健康が守られたこと、すごいことだと思わない?」
「そっか、そうする」
「神さまに委ねれば、必ず道は開かれるからね!」
 
今日はやけに直接話法で綴りたがる。
 
私たちは、神さまに委ねるとき、神の前に静まる。
 
物理的に騒がしくない静かな環境に身を置くということも大切だが、たとえ、電車や会社の中など騒がしいところにいたとしても、寄せては返すさざ波のように心を穏やかに保つ。
 
そうして、神さまを賛美する。
 
これこそ、クリスチャンの「慎ましさ」だと思う。