聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

主の子ども

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あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
 
ガラテヤ人への手紙 3:26
 
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これが自分の誕生日聖句。
 
神の子どもと聞くと、すぐに思い出す歌がある。娘が保育園に通っているとき、毎日のように歌っていた。たどたどしい日本語で歌っていたものだから、歌詞の全貌が分からず、ググっても、動画を検索してもなかなか見つからなかった。
 
さんざん探してようやく、とあるキリスト教系の幼稚園のWebサイトで見つけた。3番まであった。
 
1. 花のように明るく明るく1日 みめぐみほめ歌う こどもこども主のこども
 
2. 花のように優しく優しく絶えせず みんなをなぐさめる こどもこども主のこども
 
3. 花のように光をあおいでいつでも 光の中にすむ こどもこども主のこども
 
この、最後に繰り返される「こどもこども主のこども~」を思い出したのだ(当時は「ころもころもしゅのころも~」と歌っていたが…)。
 
子どもたちは「あなたたちは神さまの子どもだよ!」と言われると、素直に「そうだね」と頷いてくれる。「だからお祈りのときに、天のお父さまって言うんだね」と、すぐに受け入れてくれる。
 
しかし、大人はどうだ。
 
自分の親は、田舎にいる父と母に決まっているじゃないか。神の子どもなんてまったく理解できない(意味が分からない)、となる。
 
肉的に捉えるか、霊的に捉えるか、その違いだ。
 

 
ガラテヤ3章のこの聖句の前後を読めば、文脈で理解できることがある。
 
そこでパウロは、律法と信仰、束縛と自由のように、二項対立で語っている。
 
おそらく聞く人たちに分かりやすく伝えるためだろう。結果、今の時代に、聖書を通して読む私たちも助けられる。
 
詳しく掘り下げてもよいが、せっかくの誕生日聖句なので、この1節にこだわってみたい。
 
では、英語を見てみよう。
 
So in Christ Jesus you are all children of God through faith.


冒頭に来るのが、In Christ Jesus、つまり「主にあって」であり、これがここでの強調点である。
 
「主にあって」とはどういうことか?
 
簡単に言えば、それは「イエスにつながって」ということになる。
 
パウロは次の節で「キリストにつくバプテスマを受けたあなた方はみな、キリストを着た」と言っている。ここの「キリストを着る」という比喩が、私はしっくりくる。キリストという上着を纏う(羽織る)ことで、キリストにつながっている。そう感じることができる。
 

 
英語の語順で、直読直解で意味を取ると、「主にあって/あなたがたは/みな主の子どもです/信仰によって」
 
このたった1文でもパウロの息吹が伝わってくるようだ。
 
冒頭の、In Chirst Jesusで、きっとひと息つくだろう。息を吸って、You are all children of God と言ったに違いない。
 
そして、最後に、through faithで結ぶ。ここでは、目を閉じているかもしれない。
 
「信仰によって」と訳すが、by faithやwith faithとは言わず、through faithなのだ。つまり、信仰は受け身のbyではなく、能動的なthroughだ、ということだ。
 
信仰は誰かに与えられる(受け身)ものではなく、自らの自由意思によって選び取っていく(能動的)ものなんだという思いが伝わってくる。
 
「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです」
 
自分の誕生日聖句1節にこだわって、考えてみた。
 
「あなたがたはみな」を「私たちはみな」と置き換えて、そして、神の愛を感じよう。
 
キリストにつながる信仰を通して、私たちはみな神の子どもなのである。