わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。
エレミヤ17:10
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日本語で「報い」というと、どんな印象を与えるだろうか。
おそらく良くない意味で捉えられるのではないかな。
そう思って辞書で調べてみると…
ある行為の結果として身にはね返ってくる事柄。善悪いずれについてもいうが、現在では悪い行為の結果についていうことが多い。
やはりそうだった。
因果応報にしても、善因善果と悪因悪果の両面があるが、やはり悪い方で用いられる方が多いと思う。
では、聖書ではどうか?
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結論は、どちらもある、だ。
1つずつ紹介しよう。まずは悪い方から。
不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。
(コロサイ 3:25)
この聖句を読むと、イスラエルのダビデ王を思い出す。ダビデは部下の妻を姦淫し孕ませ、そして娶った。さらに、罪を隠蔽するためにその部下を死なせている。
そのダビデは、後に自分の息子に(上の女とは別の)妻を寝取られている。
こうしてダビデは自分で撒いた罪の刈り取りをさせられた。しかも同じ種類での報いを受けた。
続いて良い方。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。
(マタイ 5:11-12)
今の報いはなくとも、天での報いが大きい。今の世はうたかたであるが、天では永遠に生きるのだから、天の報いが大きいのは大いなる祝福である。
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さて、エレミヤはどちらの意味で預言したのであろうか。
この聖句までの文脈から判断すると、答えは両方である。
主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。(17:7)
これは良い方。
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。(17:9)
これは悪い方。
と、ここで思った。もしかしたら、人にとっての良い報い、悪い報いって、神にとっては別にどうでもいいことなのかもしれない。
神は人の価値基準を超越しているのだから。
そうなると、このエレミヤの預言も、良いとか悪いとかではなくて、シンプルに「その生き方により、行いの実にしたがって報いる」だけ、となる。
どっちの報いも神にとっては関係ない、と。
いや、しかし、できれば良い生き方をして、善い行いをして、良い実を実らせ、そして(神にとってはどっちでもいいにしても)自分が思うところの良い報いを得たいものだ。
人だね。