聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

正しい恐れ

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主を恐れる人は だれか。
主はその人に選ぶべき道をお教えになる。
 
詩篇 25:12
 
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旧約聖書を読んでいると、神を恐れる人たちの話がよく出てくる。
 
それは、畏怖の意味での恐れというよりも、自らの罪を神に知られたくないという恐怖の意味での恐れである。
 
たとえば、創世記にあるソドムとゴモラが硫黄の火によって裁かれた話や、民数記にあるコラたちが割れた地面に飲み込まれる話などは、読んでいて恐ろしくなる。
 
だから、神は怖いぞ、恐ろしいぞ、と言いたいのではなく、聖書の神は正しく裁かれる方であり、それは無条件の愛が根底にあってのことだと理解している。
 
でないと、以前ここで書いたような因果応報の神になる。それでは、ご利益信仰の八百万の神と変わらない、Godではないgodsに成り下がってしまう。
 

 
もう1つの視点。
 
正しく神を恐れることを聖書は説くわけだが、得てして私たちは、神を恐れるよりも人を恐れてしまう。
 
人に対する恐れは、職場でも学校でも家庭でも、どこにでも普通にあるものだろう。
 
具体的に、~さんのように、恐れる対象が明らかになっていることもあれば、漠然と人が怖いということもあるだろう。
 
たとえば、人前でうまく話せない、人の視線が怖い、こうした障害は対人恐怖だし、もっと広く社会恐怖とも言う。子どもたちの不登校もそうだと思う。
 
薬を飲んで治療を施さねばならないような状態であれば治すことが先決ではあるが、まず、人を恐れるのではなく、神に目を向けることができたらいいのにな、と思うのだ。
 
旧約聖書の「箴言」にこんなことが書いてある。
 
人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼するものは高いところにかくまわれる(29:25)
 

 
そういえば、何年か前のNHK朝ドラに、「あさが来た」という番組があった。
 
この主人公の「あさ」は、明治の実業家であり教育者でもあった広岡浅子がモデルになっている。
 
調べてみると、1849年生まれとあるから、二十歳で明治維新を経験している。亡くなったのは1919年、つまり明治の最初から最後までを駆け抜けた人である。「ペンネームは九転十起生。明治を代表する女性実業家であり、豪気・英明な天性から『一代の女傑』と称えられた」とある。
 
浅子は60歳のときにキリスト教に出会い、洗礼を受けている。その浅子の自伝ともいえる著書が「人を恐れず天を仰いで」…このタイトル、まさに!である。
 
天を仰ぐとは、神に信頼すること。神に信頼するとは、神に自分の進むべき道を委ねること。神に委ねるとき、私たちは神を正しく恐れることができる。
 
この朝ドラ、「あさ」を演じた波瑠は好演だった。そして、思い出したのが、主題歌「365日の紙飛行機」だ。
 
AKB48だからとバカにするなかれ。丁寧に歌詞を追いかけていくと、思わず涙が出そうになる。秋元康は80年代にはおニャン子クラブで、2000年代にはAKBで、実に息の長い作詞家だが、ときにグッとくるいい詞を書く。
 
この歌を聴きながら、神を恐れることで得られる自分の進むべき道を見据えて、元気をもらおう。
 
https://youtu.be/JUbU6VLV6yI