聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

ほめたたえよ

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ハレルヤ。
神の聖所で神をほめたたえよ。
御力の大空で神をほめたたえよ。
 
詩篇150:1
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
旧約聖書にある詩篇は、poemの詩というより、lyricsの詩だと思う。
 
というのも、日本の詩歌、とくに韻文と同じように、ヘブル語の詩にも修辞技法、つまり決まりごと(ルール)があるからだ。
 
学校の授業ぽくなるからあまり気が進まないが、倒置とか擬人法とか反復とか暗喩(メタファー)がある。
 
直喩と暗喩の違いは?なんて、よくテストで問われた。当時はとても味わうなんてレベルではなかったことを思い出す。
 
例えば、日本の詩、教科書によく載っている谷川俊太郎さんの「春に」(今まさにズバリのシーズンでもあるし!)の前半部分を抜き出してみると…
 
この気もちはなんだろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地からあしのうらを伝わって
ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ
声にならないさけびとなってこみあげる
この気もちはなんだろう
枝の先のふくらんだ新芽が心をつつく
よろこびだ しかしかなしみでもある
いらだちだ しかもやすらぎがある
あこがれだ そしていかりがかくれている

 
倒置に反復に比喩に、そして8-11行目、これは対句法である。谷川さんの対句、惚れ惚れする。
 

 
話を戻そう。
 
今日取り上げた詩篇150篇1節もまた、対句になっている。
 
ヘブル語詩の対句は、ユニークな特徴があって、同じことを違う表現で言い換えることである。
 
しかも、単なる言い換えではなく、より詳しく具体的に述べるという点で、著者の想いをより強く深く伝える効果がある。


神の聖所で 神をほめたたえよ。
御力の大空で 神をほめたたえよ。
 
1節では、どこで「神をほめたえよ」なのかを対句で述べている。まずは、神の聖所で、そして御力の大空で、「神をほめたたえよ」とある。
 
神をほめたたえる場所は、神の聖所。それはどこかというと、御力の大空。難しいが、つまりは神の国のことと思っていい。
 
そう、この詩は、天の御国での様子を表していたのである。
 
対句の同義表現で、畳みかけてくる感じがする。
 

 
新約聖書の黙示録には、この様子が詳細に描かれている。聖書全体のフィナーレを飾るに相応しいなと思う。
 
一方で、詩篇150は詩篇全体を締めくくるフィナーレである。わずか6節の短い詩であるが、そこには神への賛美があふれている。
 
説明するより、全文を載せた方がいい。ハレルヤで始まりハレルヤで終わる、詩篇150全体を味わいたい。
 
ハレルヤ。
神の聖所で 神をほめたたえよ。
御力の大空で 神をほめたたえよ。
その大能のみわざのゆえに 神をほめたたえよ。
その比類なき偉大さにふさわしく 神をほめたたえよ。
角笛を吹き鳴らして 神をほめたたえよ。
琴と竪琴に合わせて 神をほめたたえよ。
タンバリンと踊りをもって 神をほめたたえよ。
弦をかき鳴らし笛を吹いて 神をほめたたえよ。
音の高いシンバルで 神をほめたたえよ。
鳴り響くシンバルで 神をほめたたえよ。
息のあるものはみな 主をほめたたえよ。
ハレルヤ。
 
ドラムを演奏する私は、この詩を読むと心が躍る。体が動く。リズムを刻む。シンバルが響く。
 
この詩よ、ロシアにも届け。ウクライナキリスト者に慰めを。