わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
マタイの福音書11:29
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新しい部署を率いて半年が過ぎた。
先日、部下と評価面談をしたが、部署発足時に立てた目標が曖昧だったため難航した。
営業しか経験のない私にとって、マーケティング部門の目標設定は難儀であった。なんとか設定はしたものの、それが適切であるか不安であった。
新部署は、部下もまた同じであるから、何が正解かなんて誰もわからないまま、何を目指すかお互いよくわからないまま半年走り続けてしまった。
半年経って、振り返って、期初に設定した目標の妥当性を自らに問う。改善点はなんとか見えてきた。
だが、行く先を明確に示さないまま走らせてしまったことや、曖昧さをクリアにしないままタスクをこなすことだけに目を向けさせてしまったことは、リーダーとして不合格だと思う。
自分がこんなに優柔不断で悩んでばかりで、決めごとがなかなか定まらず、指摘されてはうろたえ、右往左往するなんて想像しなかった。
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そんなこんなでテンションがやや下がり気味であるが、そんなときは詩篇を読んだり、イエスの言葉を辿ったりするに限る。
思えば15年前の今ごろ、仕事が上手くいかなくて割とドン底を這っていたことがある。
失注ばかりで目標未達が続き、営業部長からは厳しく詰められた。帰るときには日付が変わっていることも多く、心も身体も限界に近かった。
生まれたばかりの娘と妻とで東京に引っ越して間もない頃だったこともあり、なんとか生活を軌道に乗せなければと気張っていたのだが、ムリだった。
そんなときこの聖句に触れた。
それは私がクリスチャンになろうと決断したときの聖句であり、今日の聖句の直前の箇所である。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(マタイ11:28)
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わたしのところに来なさい、休ませてあげるから。
そうして手を広げて招いてくださるイエスの懐に、私は自らを解き放ち、全身の力を抜いて、依り頼んだ。
どうしてイエスの懐で安らぎを得ることができるのか?
その理由が今日の聖句にある。
イエスは心が柔和でへりくだっているから、である。gentle & humbleなのだ。柔和とは優しさであり、へりくだりとは慎ましさである。イエスに依り頼むことで、イエスの優しさと慎ましさに触れる。
優しさと慎ましさはイエスの性質であるが、それはすなわち愛である。
あのとき私はイエスの愛に触れ、たましいの安らぎを得て、救われたのだ。
そして今回もまた、無条件で愛してくださるイエスの懐に、私は依り頼む。優しさと慎ましさを纏い、安らぎを得る。
立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。
(イザヤ30:15)