聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

見えない望み

f:id:songchi0326:20230111192507j:image

私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。
 
ローマ人への手紙 8:24
 
+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+
 
「ローマ人への手紙」でパウロが展開している神学は難しい。
 
ある箇所を取り出してみても文脈を無視しての理解が難しい。仮に理解できたとしても、前後の文脈ナシで読めば誤った解釈をする危険がある。
 
しかし一方で、パウロがこの書簡においてキリスト教の神学を構築したおかげで、キリスト教世界宗教となり得たのも事実である。
 
いまの時代に私たちが聖書を読み、神を賛美し、信仰生活を送ることができているのも、ひとえにパウロのおかげと言ってよい。
 

 
正しい解釈はできないが、前後を読むことで少しでもパウロが語りたかったことが腹落ちしたらいい。
 
今回取り上げた24節を理解するために、少々長いが5節ほど遡ってみる。
 
(19)被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。
 
(20)被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。
 
(21)被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。
 
(22)私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。
 
(23)それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
 

 
いまの世に生きる私たちは、たとえ信仰を告白して救われたとしても、霊的に新しく生まれ変わるが、肉的には罪の性質を持ち続ける。
 
死はすべての人間に与えられている。
 
肉体は朽ちる、土に還る、と言うのと同じように「虚無に服す」「滅びの束縛」は、どちらも肉体の死を表している。
 
一方、「滅びの束縛からの解放」「からだの贖い」とは、朽ちることのない永遠の体、つまり復活の栄光の体のことである。
 
そして、それを待ち望むことこそが、24節で言う「目には見えない望み」ということだ。
 
(25)私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
 
望みを抱こう。