実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。
エペソ人への手紙 2:10
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前回、創造論のことを書いた。
もともと学校教育で当たり前のように進化論を習ってきて、そのことになんの疑いも持たなかった私にとって、キリスト教が教える創造論は衝撃的であった。
いや、信じることができなかった。
文字で残されている聖書のことばを字義通りに受け入れることができなかった。
信じるのにも時間がかかる。
聖書に書いてあること、そして聖書的世界観を身につけることは、ちょうどPCのOSを載せ替えるみたいなもので、信じよう、受け入れようと思うことで、ベースとなる考え方がガラッと変えられた。
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私たちは神の作品、っていい言明だ。
今日の聖句を読むと、私たちが造られた理由が書いてある。
良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた、と。
良い行い!
できているとは言い難い。しかし、できないからと言って嘆かなくてもいい。
なぜなら…
神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださった。
からだ。
性善説とか性悪説とか関係なく、神にとっての人間は、いつだって性善説なのだ。
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神の視点に立てば、そりゃそうだなと思える。
自分で作っておきながら、悪い行いをすることを期待するわけがない。
私たちは神の性質を持った神の作品として造られているから、ロボットではなく、自由意思を持っている。
だから、神の期待に反して悪い行いをすることもある。でも、基本は良い行いをするようにできている。
そう思うと、造られたものとして、神に感謝するしかないなと思える。
良い行いについて、イエスキリストはこう述べている。
最後にイエスのことばを引用しておきたい。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
(マタイ5:16)
良い行いをもって、輝いていよう。