聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

キリストの癒し

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このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。


使徒の働き 3:16


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今月の初めに義母が入院し、先日手術があった。


田舎に独りで暮らす義母は、10年前にくも膜下出血で倒れてから施設の世話になっていた。幸いなことに麻痺が残らなかったから自活することができた。


ところが昨年、脳梗塞に罹ってからは記憶が曖昧なことが多くなり、介護サービス付きの施設に引っ越した。それでも帰省したときには、一緒にショッピングモールに出かけたり、花見を楽しんだり、大好きな海老フライを食べに行ったりした。


元気な頃はよく般若心経を唱えていた義母であったが、施設暮らしになってからはそれもなくなった。だからといって信仰心がなくなったのかといえば、恐らくそうではなくて、食前の祈りをすると一緒になって手を合わせてアーメンと言っていたから、神仏を信じる心は持ち合わせていたと思う。


残念ながら今回の手術によって、それはもうできないだろう。自力で歩くこともできなくなるだろう。


術後にベッドで眠る義母の手を握りながら、ペテロとヨハネが神殿で足の不自由な男を癒す場面を思い浮かべていた。



使徒の働き3章1節から8節までを読んでみたい。
 
ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。


すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。


彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロはヨハネとともにその人を見つめて「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。


すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」 そして彼の右手を取って立たせた。


するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。



「すると」が連続する日本語訳がいまいちではあるが、それはさておき、ここには足の不自由な男がペテロの癒しの宣言によって病から解放されたことが記されている。


ここでのポイントは「イエス・キリストの名によって」癒しの宣言を行ったことである。決して、ペテロに癒しの力が備わっていたのではない。


ところが、神殿にいた人々はその癒しの業に非常に驚き、ペテロとヨハネに駆け寄った。そこでペテロが人々に対して、癒しの理由を説明する。それが今日の聖句である。


エスを信じる信仰によって足の不自由な男は救われた。聖書には、男がイエスを信じる信仰を告白したことは書かれていない。しかし、ペテロの宣言と、ペテロが男の右手を取って立たせたそのときに、男はイエスを信じる信仰を言い表したに違いない。そうでなければ、手を取られても立とうとしなかったはずだ。


何かをもらえると思っていた男は、物質的な満たしではなく、自らの足で歩くことで新しい人生を得ることができた。つまり、信仰によって生まれ変わったと言える。


この男に与えられたように、義母の病気も癒されますように。