聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

いつもそばに

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まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。


申命記 30:14


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小学生の頃のこと。


夏休みは毎朝ラジオ体操があって、終わるとそのまま寺に直行し、お経を読んだ。


何を読んだのか、今ではまったく覚えていないが、もしかしたら般若心経だったかな? 何となく行っていたから定かでない。


しかし今思えば、子どもたちにお経を身近に感じてもらうための策だったかもしれない。


残念ながら私には根付かなかったが、それから20年が過ぎて、寺ではなく教会に通うようになり、お経ではなく聖書を読み、仏ではなく神を、釈迦ではなくキリストを信じ、受け入れるようになった。


もしかしたら、小学生のときに植え付けられた宗教心がベースにあったのかもしれない。そう思えば、あの頃の寺通いも無駄ではなかったと言える。



教会に通い始め、聖書を読み始めたとき、そのあまりの量の多さと難しさに驚いた。


受験勉強のように、聖書をマスターするためのコツや、洗礼を受けるための何らかのスキルが必要だと思っていた。


聖書の言葉を、まるで歴史の年号を覚えるように考え、入試に合格して学校に入るようにクリスチャンになれると思っていた。


でも違った。


学べば学ぶほど、聖書の言葉が懐に入ってきた。知れば知るほど、キリストの存在が心に響く染みてきた。


遠くにあって手の届かないものではなかった。自分で勝手にハードルを高くして、なにか難しいものにしていた。



この聖句の直前にこんなことが書いてある。11節から13節までを引用する。


(11)まことに、私が今日あなたに命じるこの命令は、あなたにとって難しすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。


(12)これは天にあるわけではないので、「だれが私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。


(13)また、これは海のかなたにあるわけではないので、「だれが私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちが行えるように聞かせてくれるのか」と言わなくてよい。


そう、神のことばは難しすぎるのでも、遠くかけ離れたものでもない。天にあるわけでも、海の彼方にあるわけでもない。


モーセがこのように語っているのだ。いや、語っているというより、諭しているのだ。


それを受け入れよう。


みことばは、私たちののすぐ近くにあり、口にあり、心にある。そして、それを行なうことができる。信じるに足るものなのだ。

 

溢れる希望

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どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。


ローマ人への手紙 15:13


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娘の漢検の勉強を手伝っているとき、熟語がなかなか手強かった。


身体や幼稚のように同じ意味の漢字を重ねたものとか、反対の意味のものもか、上の字が下の字を修飾しているものとか…。


この聖句を読むと、希望の神や希望に溢れるとあり「希望」に目が留まる。


この希望、ともに「のぞむ」という同じ意味を重ねた熟語である。ちなみに対義語は失望や絶望であり、これは下の字が上の字の目的語や補語になっているものとなり、熟語の構成が異なるのが面白い。


閑話休題


パウロのここでの文脈は、旧約聖書を通して示されているイスラエルの救いであり、救い主キリストの証しである。



が、しかし、この文脈を理路整然と正しく噛み砕くことは、今の私にはできない。


難しすぎる。


だから、前後の文脈からこの聖句だけを切り出して咀嚼する。


この13節でパウロは、どうか〜くださいますようにと、祝祷している。


何を祝祷しているかというと
(1) 信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たすように
(2) 聖霊の力によって希望に溢れさせてくださるように
の2つである。


が、思うに、(1)の前にも希望が必要かな。



私たちは聖書を読み、みことばに励まされ、忍耐と寛容を学び、そして希望を持つことができる。いや、持つのみならず、持ち続けることができる。


それがあって、その希望が実現すると信じているから、将来への不安がなくなり喜びと平安で満ちる。


喜びと平安に満たされたなら、これほど幸せなことはない。


さらに私たちは、聖霊によってその希望が溢れ出るとある。満ちるレベルではなく、溢れ出る! これぞ聖霊のなせるわざ。


希望がオーバーフローする。


喜んでパウロの祝祷に預かろう。遠慮はいらない。希望の神に身を委ねよう。

子どものように

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まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。


マタイの福音書 18:3


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クリスチャン新聞を読んでいたら、面白いことが書いてあった。


「話す」ことは「放す」である、と。


子どもが転んで泣いているとき、それは痛いからではなく、かまってほしいからだそうだ。


かまってもらった子どもは、痛みだけでなく、不満や不安も含めて、いっぺんにぶちまける。それは、話すというより、吐き出すといった方がいい。


話すことで、抱え込んでいるもやもやを解き放つのだ。


ふむふむ、なるほど、である。



このことは、何も子どもだけでなく、大人にも当てはまる。


私たちは、喜びなら、わりと分かち合おうとするが、悲しみや苦しみは自分で抱え込んでしまうものだ。


誰にも話すことができないままストレスとなって、心や身体に大きな負担を強いる。


私と同世代の中高年層の自死などは、その典型だろう。


聖書に出会い、神を知り、向きを変えていたら。子どものようになっていたら、と思うのだ。



かまってほしいと駄々をこねるのは、子どもらしさというより、わがままや自己中心かもしれない。


たしかに、友人に吐露したり、妻にボヤいたりするとそう思われてしまう。


しかし、駄々をこねる対象が神さまだとしたら…。


神さまは、私たちの悲しみや苦しみを侮られる方ではない。ましてや、私たちのうめきや嘆きを聞かれないような心の狭い方ではない。


エスキリストでさえ「この苦しみを取り去ってください」と訴えたのだ。私たちが言えない理由はない。


抱え込まずに吐き出す。話すことで放たれる。神さま方向に、向きを変える。子どものようになる。


エスは、続く4節でこう言う。


ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。


子どものように。

悪意もろとも

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無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい。


エペソ人への手紙 4:31


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●Aを捨て去る=get rid of A


受験英語でやった。頻出イディオムだったはず。


丸暗記していただけだから、深く意味を考えたことがなかったけど、単に捨てるのではなく、内在している厄介なものを取り除く、という意味合いが含まれることがわかった。


Aに、病気や怪我といった望まない環境が来れば、そこから抜け出す、となる。


Aに、人が来れば、解雇する、となる。


Aに、不要なものや重要じゃないことが来ると、それらを片付けたり追い払う、となる。今回はこれに当たる。


では、厄介なものは何か? 不要なものは何か?



聖句にいくつか並んでいる。


怒りや罵り、そして無慈悲。これらが厄介なもの、不要なものだ、と。


たしかにそうである。


罵りや無慈悲はできれば取り除きたい。そこには、正しさや情けがないからだ。


ただ、悪に対する怒りや憤りは、不要とは思わない。正しく怒ることや、不正や萩に対して外には出さずとも内側で憤ることは、健全だと思う。


しかし、そこに悪意があるならば、まったく違ってくる。


悪意や敵意をベースにした怒りや憤りは、厄介である。洋服に付いたほんの小さな染みが、気付いたらどんどん広がっていくように、はじめは自分でも気が付かないくらいだったのが、知らないうちに大きな怒りの塊を抱え込むようになる。


もはや制御不能である。



ベースになる悪意とは、その字のごとく、悪魔の意図である。


自分では気付かない、知らないうちであっても、悪魔(神に敵対する存在のこと)は明確な意図を持って、私たちに罠を仕掛けてくる。


だから、パウロは言うのだ。


怒りや罵り、無慈悲は、そのベースにある悪意とともに捨て去りなさい、と。


はじめは気付かないかもしれない。気付くのは、もしかしたら怒ったら罵ったりしたあとかもしれない。


でも、気付いたらそのときに、即刻捨て去る。悪意とともにバッサリ取り除く。


どうやって?


エスキリストの御名によって祈ること、これである。


エス自身がそう言っている。


私たちは、悪に打ち勝ったイエスが示すこの確信によって生きる。


「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」
ヨハネ 14:14)


https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-pray-Jesus-name.html

きよさを求める

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すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。


へブル人への手紙 12:14


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前回は癒しやリラクゼーションのことを書いた。


疲れたり重荷を負っている人は私のところに来なさい、休ませてあげましょう、と言われたイエスの言葉に、私は救われた。


罪の奴隷ではなく、自由の奴隷になることを選んだ。


癒しもリラクゼーションも必要だが、たましいの安らぎこそ、必要であった。


今回は、癒しやリラクゼーションをもう一歩先に進めた話だ。



癒される、というように、癒しは基本的に受け身だ。


もちろん、信じるという選択をしているし、救われたい! 自由になりたい! という積極的な意思もある。


しかし、もっと能動的に何を求めるのか、というと、それは「きよさ(聖さ・清さ)」だと、ある。


きよさ、、、はて。


聖書では、聖は「区別する」ことを意味すると、聞いたことがある。


つまり、きよさを追い求めるとは、古い自分に別れを告げること、頑丈なパーティションで遮断すること。罪の性質に溺れることのないようにシャッターを下ろしておくこと。


そうして、罪に背を向けて、情欲や嫉妬といった悪からの招きを断つ。



神から一方的に与えられている恵みを受ける。


恵みを受けるためには、心が開いていなければならない。素直さや謙虚さで、神の恵みを受け入れることができる。


まっすぐに神が示した道を歩む。


もう、これまで散々、道を踏み外して生きてきた。


もしかしたら、これからもふらふらと、踏み外すことがあるかもしれない。


でも、その先に溺れたりはしない。立ち返るところがある。それを知っている。もう無知ではない。


表面的な癒しを求め、満足するのではなく、きよさを追い求める人でありたい。

自由のくびき

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わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。


マタイ11:29


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癒しやリラクゼーション、という言葉が当たり前に聞かれるようになって久しい。


ストレスの多い現代人には癒しが必要である、私たちはそう刷り込まれている。


ストレス解消のために癒しやリラクゼーションが必要!と煽られ、そこに巨大なマーケットが存在する。


温泉にゆっくりつかる。美味しい料理を味わう。エステやマッサージは、もはや癒やしを通り過ぎてそれ自体が目的化している感じもする。


もちろん、それらのことはストレス解消になるだろうし、満たされた気持ちになるのも分かる。


私は15年近くアトピーを患っていたが、いろんな原因はあれど、ストレスもそのひとつだったと思う。


あの頃、私はアルコールや煙草を摂取することで、ストレスが発散できると思っていた。部屋ではアロマオイルやインセンスを焚いて、リラックスできていると思っていた。


いま思えば、虚しい行為だったと恥ずかしい限りであるが、当時は至って真面目だった。


そんなとき、この聖句に出会った。

 



1つ前の28節、おそらくこちらの方がよく知られているはず。


すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。


こう語りかけられて、あ、自分のことだと思わない人っているだろうか。


日常に安らぎがない、と感じている方に知ってほしい聖句である。


休ませてあげると言われたイエスは、続く29節で、イエスのくびきを負い、イエスから学ぶことを求める。


28節と29節はセットで理解しないといけない。


カラダが休まるのではない。たましいに安らぎを得る、とある。



くびきをかけられた牛の姿は、十字架を背負って歩くイエスの姿と重なる。くびきを負うとは、自らの罪の性質を認識することである。


一方で、くびきを逃れるというように、くびきは自由を束縛するものでもある。しかし、イエスのくびきは、自由を束縛するのではなく自由を得させるものである。


なぜなら、イエスのくびきを負うことで、向かうべき道が正され、イエスに倣う生き方を求めるようになるからである。


罪のくびきか、イエスがもたらす救いのくびきか。重いくびきか、軽いくびきか。罪の奴隷か、自由の奴隷か。


私のたましいの救いは、罪のくびきを捨て、イエスのくびきを負うことによってなされた。


20年前の自分を思い出しながら、そう確信する。

約束を守る方

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神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。


ローマ人への手紙 4:21


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この聖句、主語がない。誰のことか?


正解は、アブラハム


アブラハムの物語を読んでいると、そのクライマックスは、息子イサクを生贄として献げるシーンであろう。


創世記22章1-14節に、詳しく記されている。


http://seisho-shinkaiyaku.blogspot.com/2010/05/blog-post_5275.html


久しぶりにこの箇所を読んだとき、ハッとさせられた。

 

これまでボンヤリとしか捉えていなかったことが、ハッキリと分かった。



アブラハムのイサク奉献は、父なる神がひとり子なるイエスを生贄とすることと、完全にオーバーラップする。


(1)イサクが薪を背負って歩く→イエスが十字架を背負って歩く


(2)イサクを縛り薪の上に載せた→イエスが十字架に架けられる


(3)献げた(死んだ)イサクがアブラハムに戻された→死んだイエスが復活した


この中で、(3)の理解が難しい。


アブラハムにとっては、神からイサク奉献を命じられた時点で、すでにイサクを死んだものと捉えていた。


しかし、死んだイサクは甦ることが分かっていたのではないか。いや、そう確信していたのではないかと思う。


なぜなら、アブラハムのセリフに「おまえたちは、ろばと一緒に、ここに残っていなさい。私と息子はあそこに行き、礼拝をして、おまえたちのところに戻って来る」とあるからだ。


戻ってくる!と使いの者に告げているのだ。



このアブラハムの強靭な信仰は、いかにして形成されたのか? それが、ローマ人への手紙4章で解説されている。


アブラハムがイサクを授かったのは、彼が1百才のとき。


あなたの子孫を天の星のように、海の砂のように増やそう!と、神から祝福を受けたものよ、一向に子どもを授かることがなかった。


それでも決して不信仰になることはなく、かえって信仰が強められた。


故郷から約束の地へ旅立ってからの日々、神から受けた数々の恵みを忘れることはなかった。


神は、無いものを有るものにできる。神は、約束したことを実行する力があると、確信していた。


息子イサクと父アブラハムの関係は、ひとり子イエスと父なる神の関係と重なると、記した。


と同時に、アブラハムの信仰、そして義は、神に対する私たちの信仰のあり方を示す型でもある。


神からの恵みに対して、私たちは「神は約束したことを必ず実行される方である」と信じる信仰を持って応答する者だ。


久しぶりに創世記を読もうかなと思った。


神の人類救済のプランがどのように展開されているかを知るには、創世記を紐解くのが一番だ。