聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

きよさを求める

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すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。


へブル人への手紙 12:14


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前回は癒しやリラクゼーションのことを書いた。


疲れたり重荷を負っている人は私のところに来なさい、休ませてあげましょう、と言われたイエスの言葉に、私は救われた。


罪の奴隷ではなく、自由の奴隷になることを選んだ。


癒しもリラクゼーションも必要だが、たましいの安らぎこそ、必要であった。


今回は、癒しやリラクゼーションをもう一歩先に進めた話だ。



癒される、というように、癒しは基本的に受け身だ。


もちろん、信じるという選択をしているし、救われたい! 自由になりたい! という積極的な意思もある。


しかし、もっと能動的に何を求めるのか、というと、それは「きよさ(聖さ・清さ)」だと、ある。


きよさ、、、はて。


聖書では、聖は「区別する」ことを意味すると、聞いたことがある。


つまり、きよさを追い求めるとは、古い自分に別れを告げること、頑丈なパーティションで遮断すること。罪の性質に溺れることのないようにシャッターを下ろしておくこと。


そうして、罪に背を向けて、情欲や嫉妬といった悪からの招きを断つ。



神から一方的に与えられている恵みを受ける。


恵みを受けるためには、心が開いていなければならない。素直さや謙虚さで、神の恵みを受け入れることができる。


まっすぐに神が示した道を歩む。


もう、これまで散々、道を踏み外して生きてきた。


もしかしたら、これからもふらふらと、踏み外すことがあるかもしれない。


でも、その先に溺れたりはしない。立ち返るところがある。それを知っている。もう無知ではない。


表面的な癒しを求め、満足するのではなく、きよさを追い求める人でありたい。