まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
マタイの福音書 18:3
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クリスチャン新聞を読んでいたら、面白いことが書いてあった。
「話す」ことは「放す」である、と。
子どもが転んで泣いているとき、それは痛いからではなく、かまってほしいからだそうだ。
かまってもらった子どもは、痛みだけでなく、不満や不安も含めて、いっぺんにぶちまける。それは、話すというより、吐き出すといった方がいい。
話すことで、抱え込んでいるもやもやを解き放つのだ。
ふむふむ、なるほど、である。
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このことは、何も子どもだけでなく、大人にも当てはまる。
私たちは、喜びなら、わりと分かち合おうとするが、悲しみや苦しみは自分で抱え込んでしまうものだ。
誰にも話すことができないままストレスとなって、心や身体に大きな負担を強いる。
私と同世代の中高年層の自死などは、その典型だろう。
聖書に出会い、神を知り、向きを変えていたら。子どものようになっていたら、と思うのだ。
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かまってほしいと駄々をこねるのは、子どもらしさというより、わがままや自己中心かもしれない。
たしかに、友人に吐露したり、妻にボヤいたりするとそう思われてしまう。
しかし、駄々をこねる対象が神さまだとしたら…。
神さまは、私たちの悲しみや苦しみを侮られる方ではない。ましてや、私たちのうめきや嘆きを聞かれないような心の狭い方ではない。
イエスキリストでさえ「この苦しみを取り去ってください」と訴えたのだ。私たちが言えない理由はない。
抱え込まずに吐き出す。話すことで放たれる。神さま方向に、向きを変える。子どものようになる。
イエスは、続く4節でこう言う。
ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
子どものように。