わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
マタイ11:29
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癒しやリラクゼーション、という言葉が当たり前に聞かれるようになって久しい。
ストレスの多い現代人には癒しが必要である、私たちはそう刷り込まれている。
ストレス解消のために癒しやリラクゼーションが必要!と煽られ、そこに巨大なマーケットが存在する。
温泉にゆっくりつかる。美味しい料理を味わう。エステやマッサージは、もはや癒やしを通り過ぎてそれ自体が目的化している感じもする。
もちろん、それらのことはストレス解消になるだろうし、満たされた気持ちになるのも分かる。
私は15年近くアトピーを患っていたが、いろんな原因はあれど、ストレスもそのひとつだったと思う。
あの頃、私はアルコールや煙草を摂取することで、ストレスが発散できると思っていた。部屋ではアロマオイルやインセンスを焚いて、リラックスできていると思っていた。
いま思えば、虚しい行為だったと恥ずかしい限りであるが、当時は至って真面目だった。
そんなとき、この聖句に出会った。
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1つ前の28節、おそらくこちらの方がよく知られているはず。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
こう語りかけられて、あ、自分のことだと思わない人っているだろうか。
日常に安らぎがない、と感じている方に知ってほしい聖句である。
休ませてあげると言われたイエスは、続く29節で、イエスのくびきを負い、イエスから学ぶことを求める。
28節と29節はセットで理解しないといけない。
カラダが休まるのではない。たましいに安らぎを得る、とある。
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くびきをかけられた牛の姿は、十字架を背負って歩くイエスの姿と重なる。くびきを負うとは、自らの罪の性質を認識することである。
一方で、くびきを逃れるというように、くびきは自由を束縛するものでもある。しかし、イエスのくびきは、自由を束縛するのではなく自由を得させるものである。
なぜなら、イエスのくびきを負うことで、向かうべき道が正され、イエスに倣う生き方を求めるようになるからである。
罪のくびきか、イエスがもたらす救いのくびきか。重いくびきか、軽いくびきか。罪の奴隷か、自由の奴隷か。
私のたましいの救いは、罪のくびきを捨て、イエスのくびきを負うことによってなされた。
20年前の自分を思い出しながら、そう確信する。