聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

みことばの蓄え

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私は心を尽くしてあなたを求めています。
どうかあなたの仰せから
私が迷い出ないようにしてください。


詩篇 119:10


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大文字のGでGodと書くと、それは唯一なる神を指す。


聖書には異教の神々や偶像のことをgodsと、小文字で、しかも複数形で書くことで、Godと区別している。


また、大文字のBでBookと書くと、それは聖書を指す。


bookはその昔パピルスで作った紙に文字を記したことから、パピルスビブロスあたりが語源らしい。


ビブロス…そう、Bibleもまた同じ語源なのでした。


では、大文字のWでWordと書くと、それは何を指すだろうか?


もう答えはわかるだろう。それは聖書の言葉、みことばを指す。


神(God)の御心によって書かれた聖書(the Book)にあるみことば(the Word)、繋げるとこういうことになる。


The Word is His message written in the Bible by  God. とでも言えばいいかな。



今日の聖句には、あなたの仰せとあるが、この仰せこそが、みことば(the Word)である。


1つ前の9節に「どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに道を守ることです」とある。


清らかに生きるためには、みことばに忠実にいることだ。


旧約聖書の時代、特にアブラハムモーセが生きた時代には、神は直接語りかけてくれた。


アブラハムは、神の語りかけに信仰をもって忠実に応答した。「アブラ(ハ)ムは主を信じた。それで、主はそれを神の義と認められた」(創世記15:6)


モーセは、神の語りかけに信仰をもって熱心に応答した。「モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した」(出エジプト34:28)


いにしえの偉大な信仰者は、みことばに忠実であった。



私たちの時代は、神が人に直接語りかけることはない。


代わりに神のことばは聖書として、2000年に渡り読み継がれてきた。


エスキリストは、悪魔の誘惑を退けるときに、自分の知恵や力に拠らず、神のみことば、つまり聖書のことばを頼った。「下がれサタン。あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさいと書いてある」(マタイ4:10)


それに倣って、私たちもみことばに忠実でいよう。みことばからはみ出ないように、迷い出ないように、忘れ去らないようにしていたい。


続く11節。


私はあなたのみことばを心に蓄えます。あなたの前に罪ある者とならないために。


そう、頭で理解するだけじゃなくて、心で感じ、心にストックしていよう。嬉しいときも、悲しいときも、みことばが溢れ出るような、そんな状態でいられるように。

神の時

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神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。


伝道者の書 3:11


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今日の聖句は、私がクリスチャンになる前、専門用語では求道中というが、聖書を拾い読みしているときに見つけて感動した箇所だ。


「伝道者の書」は聖書の中でもマイナーな部類に入る。しかし、キリスト教初心者の日本人には意外に受け入れやすいかもしれない。


1章には「空の空、すべては空」「日は昇り、日は沈む」「知恵が多ければ悩みも多く、知恵が増す者には苛立ちも増す」と、聖書的な世界観を持っていなくても、道徳的に倫理的に常識的に、理解し共感することができる。


今回取り上げた3章もそうだ。


1節2節を読むと「すべてのときには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある」とある。


続けて読み進めると「殺すのに時があり、癒すのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある」といくつも対比して綴られていく。


日本人だと、無常観を感じるかもしれない。あるいは運命論的な捉え方をするかもしれない。


しかし、唯一真なる神を信じる者は、神がこの世を創り、この世を支配しておられることを信じ受け入れている。

 

だから、神の営みの下で人間が生かされていることは無常でもなく無力でもなく、感謝なことである。



求道者だった私は、「伝道者の書」をクリスチャン的に読むことができなくて、当時聖書を教えてもらっていた老齢の牧師に質問したことを覚えている。


神の時ってなんですか? と。


すると、時間の概念にはクロノスとカイロスの2種類があるんだと教えてくれた。イカロスみたいで勇ましい兄弟のようだ。言葉そのものはギリシャ語とのこと。


クロノスは、時系列をchronological(クロノロジカル)というように、誰にとっても同じように客観的に流れていく時間のこと。履歴書の学歴や職歴を思い出してもらうといい。


聖書にも、イスラエルの歴代の王について記した「歴代誌」があるが、これも英語ではChronicles(クロニクル)と言う。アーティストのベスト盤なんかでもよく使われる。


一方、カイロスは何かに夢中になっているとあっという間に時間が過ぎたり、退屈な会議に出ているといつまでたっても時間が過ぎなかったり、同じ時間でも長く感じたり、短く感じたりする、あの時間感覚のことである。


つまり、クロノスは客観的時間であるのに対し、カイロスは主観的時間であると言える。



これで答えが出た。


神の時、それはカイロス、神の主観で動いている時間のことだった。


人間にとって1日は1日、1年は1年と変わりないが、神にとっては「一日は千年のようであり、千年は一日のようです(第2ペテロ3:8)」とある通りだ。


私たちは、自分の努力でうまくいくときもあれば、失敗するときもある。


喜び過ぎて有頂天になれば、神は静まるときを与えてくれる。逆に、落ち込んでどうしようもないときは、一番最適な方法とタイミングでその苦難から助け出してくれる。


喉頭がんの手術をし療養中だった父に、この聖句を送ったことを思い出す。


あなたがたが体験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(第一コリント10:13)


いま父は、がんを克服し、70を過ぎてもなお現役で仕事をし、趣味の登山や写真にいそしんでいる。神の時、脱出の道が確かにあった、ということである。


神のなさることは、すべて時にかなって美しいのだ。

 

 

強く雄々しく

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わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。


ヨシュア記 1:9


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私たちクリスチャンには、この世の父と天の父がいる。


お祈りするときは必ず最初に「天の父なる神さま」や「天のお父さま」などと言ってから祈る。


愛そのものである神は、旧約聖書ヨシュアに告げたように、力を与える神でもある。


イスラエルの偉大な指導者モーセの後継者となったヨシュアは、もともと戦士であった。戦いにかけては勇猛果敢なヨシュアであったが、いざリーダーとしてイスラエル全体を率いるとなると、不安が大きかった。いや、不安ではなくとてつもなく大きな恐れだったはずだ。


そんなヨシュアに神は告げるのだ。


ヨシュア記の1章は、神のお告げから始まる。



1章2節から9節までをそのまま抜粋する。なぜなら、この神からヨシュアへの言葉はヨシュアを力づけ勇気を与えるとともに、その端々に、神の愛が溢れ出ているからだ。


1-2 わたしのしもべモーセは死んだ。今あなたとこのすべての民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。


1-3 わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。


1-4 あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。


1-5 あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。


1-6 強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。


1-7 ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。


1-8 このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分ですることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。


1-9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。



6節、7節、9節と繰り返し「強くあれ、雄々しくあれ」と、神はヨシュアに告げる。


このことから神は、ヨシュアが勇猛果敢で屈強な戦士だからリーダーに選んだのではないことが分かる。もともと強く雄々しい人に、そうありなさいなんて命じないだろう。ヨシュアが自分の弱さ、不安、恐れを認めたからこそ、神はヨシュアを召したのだ。


そして「あなたとともにいる」「あなたを見放さない」「あなた見捨てない」と、励まし、勇気を与えたのである。


先日、父の日だった。私たちは生まれてから、父の愛に包まれ、父の力に守られ、大きくなる。この世の父なくして、私の存在はない。当たり前だけど、こうして人の命が連綿と紡がれていくことに驚く。


この、人の命の連鎖を天の父はすべてご存じで、神の計画の中で私たちは生かされている。


この世の父に守られ励まされたように、天の父もまた、私たち1人ひとりを愛し、励まし、力と勇気をくれる。


そのことに感謝し、畏敬の念をもって、今日も「天のお父さま」と呼びかけ、祈ろう。

 

見えないもの

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私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。


コリント人への手紙 第二 5:7


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コロナ禍で低下した機能。それは視力である。


PC、スマホタブレットと、目を酷使することが格段に増えた。


これまでは営業に出れば、会議や打ち合わせは休めていたが、もはやそれはない。何時だろうと、ZoomだのMeetだのってオンラインでつながれるから、営業中であってもやりとりできてしまう。


MailもSlackもバンバン来るし、電話だって鳴る。スケジュールに隙間がなくなる。疲弊する。


こうして徐々に目が悪くなる。


今日の聖句を読むと、私たちは見えるものではなく、信仰によって生きるとある。普段いかに見えるもの、視覚情報として入ってくるものに縛られているか、思い起こさせる。


見て知る。見て分かる。見ることによって、私たたは分かることが増え、できることが増えていく。

 

できることが増え続けると、その果てにあるのは自己中心で、傲慢で自己中心的でいると、信仰は廃る。



「かんじんなことは目に見えないんだよ」って、星の王子さまのキツネは言った。


見えることがすべてだと思っていると、大切なことを見落とす。成長の機会を見逃す。信用や信頼を見過ごす。そして、真理を見誤る。


でも、目に見えることがすべてではないと知ると、生き方は変わる。


見落としたり、見逃したり、見過ごしたり、見誤ったりしないようになる。


コリント人への手紙を書いたパウロも、自らがその体験者として語ったのだろう。

 

同じ書簡の別の箇所で「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(2コリント 4:18)」と書いている。


復活のイエスに会い、見えないものが永遠であることを知ったパウロ。だから、信仰によって歩む、と断言できる。



見えることがすべての今の世界で、それでも見えないものに目を留めることは容易ではないだろう。


目に入る情報を遮断することはできないから。しかし、目に入ってくる情報に左右されないようにすることはできるだろう。視覚情報だけで物事を判断しないようにすることもできるだろう。


そう、私たちは「見る」行為をやめることはできないが、「見た」情報を的確に処理し判断する知恵は備えている。


「見る」ことから「見抜く」ことへ。


「見る」ことから「見分ける」ことへ。


信仰をもって、表面的な「見る」世界から、本質を見抜き、真偽を見分けることができるようになりたい。

 

行き過ぎた正しさ

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あなたは正しすぎてはならない。
自分を知恵のありすぎる者としてはならない。
なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。


伝道者の書 7:16


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何年か前のこと、フィンランドの子ども賛美チーム「イッピー」を教会の子どもたちで結成して活動していた時期があった。


その中の1曲に「色のうた」という、子どもたちが好んでよく歌っていた賛美がある。


「赤はイエスの愛、黒は心の罪、白は十字架で清めた心~」という歌いはじめだ。


この歌詞の「黒は心の罪」に、教会のあるご婦人から物言いがついた。


教会には日本人だけでなく、アメリカ人や韓国人など多様な国籍の人がいる。肌の色もいろいろである。「黒は心の罪」と言うと、肌の黒い子どもが傷つくかもしれない。だから歌うのをやめてほしい、と。


賛美チームを率いている大人たちと教会とで話し合った。結果、不本意ながら、この歌は教会では歌わないことに決めた。


いわゆるPC(ポリティカル・コレクトネス)だ。



PCは実に厄介である。直接的な表現を避け間接的にしようとか、差別的・侮蔑的な表現を避けようとか、そういうのはこれまでもあったし、理解できる。


しかし、行き過ぎた自主規制は、言葉狩りを生む。


そう、正し過ぎてはいけないのだ。


物事は善悪・白黒だけで判断できるわけはなく、その中間、グレーなことだっていっぱいある。さらに、正しさだって、正しければなんでもいいというわけはなく、正しさにも程度がある。


正し過ぎる。それは、非の打ちどころがないことである。


そして、非の打ちどころがないことから、私たちは傲慢になるものだ。


この聖句は、そこに警鐘を鳴らしている。



行き過ぎはよくない。


「~過ぎる」については、英語の表現が理解を助けてくれる。


正しさ=righteousに対して、行き過ぎた正しさは、overrighteousという。賢さ=wiseに対して、行き過ぎた賢さは、overwiseという。


前置詞overは、よく英語の参考書などにあるイメージでは、ある物体を覆うように半弧を描いたものである。onとかaboveとは明らかに違って、外套のことをオーバーというように「覆う」イメージがある。


だから、正しさも賢さも、行き過ぎると覆われてしまうのだ。


PCもそう。正し過ぎる、賢すぎるのは、正しさや賢さを覆ってしまうのである。


ルカの福音書にはイエスのこんな言葉がある。


あなたは、兄弟の目にあるちり(おが屑)は見えるのに、自分自身の目にある梁(丸太)には、なぜ気が付かないのですか?(ルカ6:41)


他人に対して正しさや賢さを行使するのではなく、自分に対して、もっと言うと、神に対して正しく、賢くありたい。

〇〇への自由

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あなたのしもべを傲慢から守ってください。
それらが私を支配しないようにしてください。
そのとき私は大きな背きから解き放たれて
全き者となるでしょう。


詩篇 19:13


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髪を切ってもらいながら、美容師さんと自由について話していた。


なんでそんな話になったのかよく覚えていないが、なぜか自由のこと。


若い子たちは、みんなお金持ちになりたい、自由になりたいって言うんだよ。でもだからって、自分で何かをするわけじゃなく、ラクしてお金が手に入って、そしてラクして自由に暮らしたいんだって。


つまり、お金持ちになることと自由になることがイコールなのだ。欲しいものが何でも手に入る。これが自由なのだ。


…わかる。もう痛いくらいによくわかる。だから思う、気付けたらいいのになと。


それは自由ではなく束縛であると。奴隷であると。自由とは程遠いのだと。


自由と思っていたら、実はそれとは真逆の状態に陥っているってことに気付けたらいいのにな。



手に入れたと思っていた自由は、実はただの欲望の塊で、束縛から自由になったのではなく、自由という名の欲望の支配下に置かれただけなのだ。


これに気付くのに10年以上かかった。


美容師さんと自由談義に花を咲かせながら、ダビデのこの詩を思い、そして自分の若い頃を思い出していた。


子どもの頃に王としての油注ぎを受け、誰もが振り返る端麗な容姿を与えられ、抜群の音楽の才を認められ、とんとん拍子に人生が好転していった若き日のダビデ


地位も名声も得て、経済的にも不自由がなく、情欲の赴くままに姦淫の罪を犯し、その罪逃れのために部下を死に至らしめた。晩年には、息子に裏切られるなど苦汁を飲む。


しかし、この詩篇は晩年のダビデが過ぎた日々を振り返りながら、なおも神に信頼することをやめていないという宣言でもあるのだ。



傲慢に支配されませんようにと謳うダビデの心境に、私の思いを重ねたい。


神を信じることは、この世的に考えれば不自由に映るかもしれない。実際、日曜日に礼拝に行くことを窮屈だと言われたり、いろんな禁止事項があって面倒だと言われたりするから、そう思われるのだろう。


でも自分自身の経験から断言する。


自由だと思って手に入れたものが束縛であり、罪の支配であったのに対し、不自由だと思っていた信仰には自由があったということを。


神を信じることによって得られる自由。


それは、○○からの自由ではなく、○○への自由と言える。


そこに本当の意味での解放がある。


そのとき私は大きな背きから解き放たれて全き者となるでしょう、とあるように。。。

我は聖霊を信ず

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しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。


ヨハネ福音書 14:26


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ひと頃スピリチュアルブームがあった。


今はどうなんだろう。ブームが終わったのか、それとも占いのように日常に溶け込んでしまったのか。


あのブームのおかげというか、あのせいで、目に見えない霊に対する認識は高まった。高まったのはいいが、はたして正しく認識してるかどうかは、また別問題である。


見えるものしか信じない現代の風潮にあって、目に見えないものを信じることができるだろうか。


見えないものを信じることは、弱き者、愚かな者だろうか。


三位一体の神において、父なる神と聖霊なる神を、私たちは見ることができない。唯一、子なる神であるイエスキリストだけが、人となってこの世に来られたおかげで、実際に見ることができた。


そのイエスが父なる神のことを証しし、聖霊の存在を明言しているのだから、私たちはそれを信じる。


ほとんどのクリスチャンが唱える使徒信条において、「我は父を信ず。我はイエスキリストを信ず。我は聖霊を信ず」と信仰を告白している。



前回取り上げたイエスの昇天の場面で、イエスは弟子たちに「わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高きところから力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と言われた。


この「父が約束されたもの」が聖霊である。


弟子たちはそれを受け取ることができたのか? イエスの言葉を借りれば「力を着せられ」たのか?


話の続きは、使徒の働きに載っている。


五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると、天から突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろな言葉で話し始めた。(使徒2:1-4)


このことを記念し、三大記念日の1つ、ペンテコステ聖霊降臨日)として今もお祝いしている。


こうして、弟子たちは天からの力を着せられた。初代の使徒聖霊を受けて宣教したからこそ、キリスト教の土台が確固たるものになった。その土台の上に、現代の私たちも立っている。



聖霊の働き、役割とはなんだろう。


それもイエスが述べておられる。箇条書きにしておく。


◎あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださる。


と、今日の聖句にある。


他にも


◎あなたがたを真理に導いてくださる。


◎自分から語るのではなく、聞いたことを語り、これから起こることを伝えてくれる。


◎罪について、義について、裁きについて、世の誤りを明らかになさる。


このように聖霊は、私たちを外面でサポートするばかりか、内面からの支えにもなってくれる。


聖書には、聖霊のことを助け主や慰め主とも書いている。人生の道先案内人みたいなものだ。しかも、ただ案内するだけでなく、その時々に必要な知恵や力を与えてくれたりもする。


目に見えない聖霊によって、私たちは日々の歩みを確かにされている。たとえ、いま目の前に広がる現状にそれを感じることができなかったとしても、振り返って自分が歩んできた道のりを思い起こしてみれば、確かに聖霊が働いていたこと、助けてくれたこと、導いてくださったことを感じるはずだ。


我は聖霊を信ず。