私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。
コリント人への手紙 第二 5:7
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コロナ禍で低下した機能。それは視力である。
PC、スマホ、タブレットと、目を酷使することが格段に増えた。
これまでは営業に出れば、会議や打ち合わせは休めていたが、もはやそれはない。何時だろうと、ZoomだのMeetだのってオンラインでつながれるから、営業中であってもやりとりできてしまう。
MailもSlackもバンバン来るし、電話だって鳴る。スケジュールに隙間がなくなる。疲弊する。
こうして徐々に目が悪くなる。
今日の聖句を読むと、私たちは見えるものではなく、信仰によって生きるとある。普段いかに見えるもの、視覚情報として入ってくるものに縛られているか、思い起こさせる。
見て知る。見て分かる。見ることによって、私たたは分かることが増え、できることが増えていく。
できることが増え続けると、その果てにあるのは自己中心で、傲慢で自己中心的でいると、信仰は廃る。
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「かんじんなことは目に見えないんだよ」って、星の王子さまのキツネは言った。
見えることがすべてだと思っていると、大切なことを見落とす。成長の機会を見逃す。信用や信頼を見過ごす。そして、真理を見誤る。
でも、目に見えることがすべてではないと知ると、生き方は変わる。
見落としたり、見逃したり、見過ごしたり、見誤ったりしないようになる。
コリント人への手紙を書いたパウロも、自らがその体験者として語ったのだろう。
同じ書簡の別の箇所で「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(2コリント 4:18)」と書いている。
復活のイエスに会い、見えないものが永遠であることを知ったパウロ。だから、信仰によって歩む、と断言できる。
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見えることがすべての今の世界で、それでも見えないものに目を留めることは容易ではないだろう。
目に入る情報を遮断することはできないから。しかし、目に入ってくる情報に左右されないようにすることはできるだろう。視覚情報だけで物事を判断しないようにすることもできるだろう。
そう、私たちは「見る」行為をやめることはできないが、「見た」情報を的確に処理し判断する知恵は備えている。
「見る」ことから「見抜く」ことへ。
「見る」ことから「見分ける」ことへ。
信仰をもって、表面的な「見る」世界から、本質を見抜き、真偽を見分けることができるようになりたい。