聖書と歩む営業マンのblog

営業は大変な仕事だ。しかし聖書を読んで、売ることよりも仕えること、貰うよりも与えることを学ぶと、心が晴れる。

14才の信仰

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あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。

ペテロの手紙 第一 1:8

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先日の礼拝で2人の中学生の洗礼式があった

受洗者は会衆の前で信仰告白をする。これまでの歩みや神との出会い、イエスを自らの救い主として受け入れる決心、そしてこれからの歩みを神に委ねることへの決意を聞いた。

以前、ここにも記したように、受洗者からは事前に賛美のリクエストをもらっており、1人はStill(静まって知れ)であった。そして、もう1人はGod bless youであった。

着替えに時間がかかることから、サブのリクエストもあって、Nothing but the blood of Jesus(罪の汚れを)とBecause He lives (主は今生きておられる)の2曲であった。

リクエストはどれもクラシックで、ノリやテンポがいいというより、しっとり歌詞を噛み締めながら歌う感じである。

2人の証しを聞いていても感じたことだが、中学2年生にして信仰が成熟している。選んだ賛美も実に大人っぽい。


今日の聖句は、1人の証しの中で紹介されていたものだ。

彼女はクリスチャンファミリーに育ち、幼い頃から神の存在を疑うことなく素直に成長した。その成長をずっと見守ってきた者にとって、受洗の場に立ち会えることは大いなる祝福である。

証しでは、神さまが自分を守ってくれることを当たり前に思っていたものの、徐々に心が離れている感覚も同時にあったこと。特に中学生になってからは祈ることもしなくなっていたこと。しかし、夏のキャンプで原罪のことを学び、自分の罪について深く考えたこと。そして、洗礼に導かれたこと。

時系列に沿って彼女自身の心の動き、揺らぎ、決意が語られた。

自分の罪の性質(罪性)に気付き、それを受け入れ(認罪)、会衆の前で公に言い表す信仰告白へと導かれた。

14才が語る信仰の旅路。自然と涙が出る。

この聖句を2節前の6節途中から引用してみる。

今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。(第一ペテロ 1:6-8)

私たちはイエスに会ったことはない。しかし、信じている。愛している。喜び踊っている。

試練にあうとき、その試練によって磨かれた私たちの信仰は何よりも高価で、終わりのときにはその信仰をもって神を称賛し、栄光を表し、誉れをもたらす。

これはまさに信仰の旅路の終着点と言えるだろう。

リクエストされた賛美をドラムで奏でながら、みことばを噛み締め、彼女たちのこれからの歩みに主の導きと守りがあることを願った。

ほめうた

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主がダビデを、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼はこの歌のことばを主に歌った。

サムエル記 第二 22:1

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礼拝賛美でこれまでずっとドラムを叩いてきた。

16のときから始めたドラムは、高校や大学でたくさんのバンドで演奏することでそれなりに磨かれた。それで生業を立てようとは思わなかったが、大人になってからも叩く機会は割とあった。

なかでも、教会でプレイズチームの一員としてドラムを叩いて賛美をするというのは、想像をはるかに超える祝福があった。

かれこれ15年近く続けている賛美奉仕であるが、何回かドラムを叩きながらコーラスを担当したことがあった。

賛美を歌う行為は、叩くのとは違った直接的な喜びや感動を得られる。

先日の礼拝で、とうとう叩きながらではなく、単独のボーカルとして賛美を歌うことになった。仕事の都合で参加できなかったメンバーのピンチヒッターとしてである。

緊急登板だからといって手を抜いていいわけはなく、事前に何回も歌って練習した。コーラスではなくメインボーカルだから、自分が気持ちよく歌えればいいのではなく、会衆とともに主に向かって献げるよう導く役割がある。

若き日のダビデは、ミケランジェロの彫刻のように逞しく、そして美しかった。

サウルに召し抱えられたダビデは、始めこそサウルの寵愛を受けていたが、次第に命を狙われるようになった。サウルは精神を蝕まれており、若くて美しいダビデを妬んでいたからだ。

サウルの悲壮な死によって救われたダビデが主に捧げた誉め歌が、今日の聖句である。

2節から51節まで続くダビデの歌、そこには、ダビデが経験してきた苦難と嘆き、神への従順と信頼、そして感謝と喜びが刻まれている。

最初の数節だけ取り上げてみる。

主よ、わが巌、わが砦、わが救い主よ、身を避ける、わが岩なる神よ。わが盾、わが救いの角、わがやぐら、わが逃れ場、わが救い主、あなたは私を暴虐から救われます。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。
(第二サムエル 22:2-4)

サウルの死後、この歌を主に向かって歌ったダビデに想いを馳せる。

さて、ボーカルデビューであるが、ピアノとアコギに合わせて、丁寧に歌った。

会衆と一緒に主に献げようと、気持ちを込めて歌った。

礼拝後に配信用の動画で賛美を聞き返したところ、音を外していたり、独り善がりに歌っているところがあった。次回に向けての反省点である。

それでも何人かの方、特にシニアのご婦人方から、お褒めの言葉を頂戴した。これからも歌ってほしいと言われて、素直に喜んだ。

今回の経験を通して得たこと、それは、歌うときと同じようにドラムを叩けたらいいなということ。ドラムは慣れているがゆえに、叩きながらつい雑事に心を奪われたり、次にこんなフィル(ドラムのフレーズ)を入れてみようかなと考えたりしてしまう。

ではなく、会衆が賛美を献げる気持ちになれるようにリズムを刻む。それは、歌うように叩く、ということかもしれない。

来週の礼拝での私のドラム演奏はひと味違うはずだ。そうありたいし、そうなれるように祈ろう。

Keep the rhythm with faith.

主こそ神

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喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。

詩篇 100:2

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150篇ある詩篇の2/3のところにあるのが詩篇100。

礼拝の冒頭で招詞として扱われることも多い箇所である。簡潔で、かつ全体は1から5節と短いので、ここに全文を載せたい。

全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。
喜びをもって主に仕えよ。
喜び歌いつつ御前に来たれ。

知れ、主こそ神。
主が私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民。その牧場の羊。

感謝しつつ、主の門に
賛美しつつ、その大庭に入れ。
主に感謝し、御名をほめたたえよ。

主はいつくしみ深くその恵みはとこしえまで
その真実は代々に至る。

詩篇100は「感謝の讃歌」という。

創造者である神を覚え、感謝し、喜び歌う。そう思って改めて詩篇100を読むとまるで歌の歌詞のように思えてくる。

実際、ヘブル語で読むと韻を踏んでいたりして、歌になっていると思う。私にはわからない世界ではある。

しかし、この日本で、詩篇100を歌にしてくれる人たちがいる。つい最近知って、口ずさんでみたが、これが素晴らしいのだ。

感謝と喜びを内に秘めるのではなく、もちろん秘めていいのだけど、それより、外に向かって弾けるようにことばを、感情を、エネルギーを放出する。それが日本語賛美の詩篇100。

聴いてみよう。

https://youtu.be/7O4BeAEDuaY?si=-l7Jyb0CEZOH8kR8

サビの「知れ、主こそ神!」のほとばしり、最高だ。

賛美をしながら、3つのみことばが浮かんだので書き留めておきたい。

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。(詩篇23:1)

1つめはこの箇所。テーマは謙遜。

私の羊飼いが神であると確信することで得られる、謙遜と平安。ゆえに、乏しいことはないと言い切ることができる。

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ 4:6-7)

2つめはこの箇所。テーマは従順。

自分の都合に合わせて祈ったり、あることは自力で頑張るけど、この部分は神さまお願いします!と、願いを選り分ける。これは神をコントロールしようとしていることになる。

つまり、神になろうとする傲慢である。

あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。(マタイ6:32-33)

3つめはこの箇所。テーマは信頼。

God First. まず神を求めること。神の義がなされ、神の国の到来を待ち望むこと。神への信頼は、どこかの偉い信仰者が担うのではなく、私たち1人1人が受け入れることで示される。

あぁ主よ、イスラエルの地に平安を与えてください。争いが1日も早く収まるようにしてください。

 

静まる

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主は慈しみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを静まって待ち望むのは良い。

哀歌 3:25-26

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静まることの大切さを感じている。

もう随分前からある「コスパ」という言葉。正確な意味とは異なるが、消費者目線から、欲しいものが思っていたよりお値打ちに手に入れることができたときに「コスパがよかった」のように使う。

もとはビジネス用語で、かけた投資額(コスト)に見合う効果(パフォーマンス)が得られているかどうかを測る指標で、耳慣れた言い方だと、費用対効果と言ってもいい。

最近では「コスパ」に加えて「タイパ」という言葉も聞くようになった。

いわゆる時間対効果であるが、単に時間の有効活用や効率重視を表すキーワードに過ぎない。

ただ、ビジネスでコスパやタイパを振りかざし過ぎると、そのタスクを実行するのにどれくらいの時間がかかるのか、それによって得られる効果は何か、かけた労力や費用に見合うだけの効果が得られるのか、といったことが、何よりも優先すべき事項となる。

そのため、時間に追われ、余裕がなくなり、仕事を楽しむことができなくなる危険性がある。結果、心を蝕まれる。

いったん立ち止まらなければならない。立ち止まって、静まらなければならない。



今月末に中学生が洗礼を受ける。

私の教会は浸礼だから、礼拝堂にある浴槽に全身浸かる。この儀式の間、私たちプレイズチームは、受洗者から予めリクエストされた曲を演奏し、会衆とともに賛美する。

先日、受洗者からリクエストがあった。それは「静まって知れ」であった。

中学生の彼女がこの曲を選んでくるとは、驚きであった。なかなか渋い。

原曲は「STILL」といい、それは歌詞の「静まりあなたを知る」の元歌詞、I will be still and know you are God から来ている。


1
御翼の陰に隠し 力ある御腕の中に
逆巻く大海を越え 主と共に羽ばたく
我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

2
キリストの中に憩い 信頼と主の力知る
いかずち鳴り渡る中 主と共に羽ばたく
我が父よ王なる神 静まりあなたを知る

https://youtu.be/uUsdxxv5c_w?si=bBfiiib1VDXwpTKW

 


いつも元気で賑やかな彼女から「静まって知れ」にしたいと言われたとき、いったいどんな想いでこの曲を選んだのだろうと思った。

小さい頃から教会に通い、神を信じることが当たり前に思われていても、日常の中でもしかしたら自分の信仰が揺らぐことがあったかもしれない。

祈りながら、歌いながら、神にすがるような気持ちを抱いたことがあるのかもしれない。

神の前に静まることの大切さを、その必要さを理解したのだろうと思う。乱れた呼吸を整え、荒れた心を癒やされる経験をしたのだろう。

この曲は、詩篇46篇から取られている。

ただ、stillを「静まって」と訳しているのは現代の訳にはなく、口語訳にある。

静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる。(詩篇‬ ‭46‬:‭10‬)

コスパやタイパに追われる毎日ではあるが、立ち止まって、目を閉じて、神に思いを馳せる。

その時間を持つことが、イヤな言い方ではあるが、結果的に人生にとってコスパもタイパもいいのだ。

主の救いを静まって待ち望むのは良い。

 

聞いて行動する

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みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。

ヤコブの手紙 1:22

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営業からマーケティング部門に異動になって1年。

やりたかったマーケティングであったが、いざ取り組んでみると上手くいかないことばかりだった。

授業で学んだことや本で読んだことが役に立たなかったとは言わない。しかし、現場においては知識では立ち行かないことが多かった。

社内のやりとりがやたら多かった。そして、それは2年目に入った今も、残念だが続いている。

営業のときはイヤなことがあっても外に出ればよかった。ツライことがあってもお客さんと話せばすぐに気持ちを入れ換えることができた

朝からオフィスにこもっている今はそれが叶わない。それが一番きつい。さらに、やりとりの多さとそれによって抱えるストレスもきつい。

頑張りたい自分と逃げ出したい自分がいる。問題を解決したい自分と投げやりな自分がいる

今日の聖句を読んだとき、瞬間的に心臓を鷲掴みにされたような苦しさを味わった。誰にも見られなくない秘密の場所をこじ開けられたような恥ずかしさを感じた。

管理職として部下の話をよく聴くように努めている。傾聴は必須スキルだから、いつも意識している。たぶん、話を聴いてくれる上司と思ってくれているのではないかと、それなりにちゃんとやれているのでないかと思ったりする。

しかし、だ。

仮に部下によく思われていたとしても、私のことは私自身がよく知っているのだ。

ちゃんと聴いているフリをしているだけで、まともに話を聴いていないことがあることを。頷きながらも上の空のことがあることを。

自分を欺いて、ただ聞くだけの者。それはまさに自分のことではないか。

翻って、聖書を読み、説教を聞き、みことばに触れたとしても、ただ聞くだけで行動を伴わないのなら、それは自分を欺いていることになる。

聞いても行動しないことを「生まれつきの顔を鏡で眺めるようなもの」と例えている。

みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
ヤコブ 1:23-24)

私たちは毎朝自分の顔を鏡で見る。しかし、仕事に行けば自分がどんな顔をしているかなど意識しない。それと同じように、みことばを聞いても生活の中ですぐに忘れ、みことばとは関係なしに歩んでしまう。

では、みことばを実行するために、なんとか忘れないように自分の意志を強く持てばいいのだろうか。実際は、自分の力ではどうすることもできない。

逆説的ではあるが、みことばを聞くだけで行動しない者から行動する者になるためには、みことばを聞くことが大切である。

ポイントは、みことばを聞いて、そのみことばから離れないように、そのみことばに留まるようにすることである。

エスは言う。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です(ヨハネ 8:31)」と。

みことばを聞き、そこに留まりつつ行動しよう。

 

キリストの癒し

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このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。


使徒の働き 3:16


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今月の初めに義母が入院し、先日手術があった。


田舎に独りで暮らす義母は、10年前にくも膜下出血で倒れてから施設の世話になっていた。幸いなことに麻痺が残らなかったから自活することができた。


ところが昨年、脳梗塞に罹ってからは記憶が曖昧なことが多くなり、介護サービス付きの施設に引っ越した。それでも帰省したときには、一緒にショッピングモールに出かけたり、花見を楽しんだり、大好きな海老フライを食べに行ったりした。


元気な頃はよく般若心経を唱えていた義母であったが、施設暮らしになってからはそれもなくなった。だからといって信仰心がなくなったのかといえば、恐らくそうではなくて、食前の祈りをすると一緒になって手を合わせてアーメンと言っていたから、神仏を信じる心は持ち合わせていたと思う。


残念ながら今回の手術によって、それはもうできないだろう。自力で歩くこともできなくなるだろう。


術後にベッドで眠る義母の手を握りながら、ペテロとヨハネが神殿で足の不自由な男を癒す場面を思い浮かべていた。



使徒の働き3章1節から8節までを読んでみたい。
 
ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。


すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。


彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。ペテロはヨハネとともにその人を見つめて「私たちを見なさい」と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。


すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」 そして彼の右手を取って立たせた。


するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。



「すると」が連続する日本語訳がいまいちではあるが、それはさておき、ここには足の不自由な男がペテロの癒しの宣言によって病から解放されたことが記されている。


ここでのポイントは「イエス・キリストの名によって」癒しの宣言を行ったことである。決して、ペテロに癒しの力が備わっていたのではない。


ところが、神殿にいた人々はその癒しの業に非常に驚き、ペテロとヨハネに駆け寄った。そこでペテロが人々に対して、癒しの理由を説明する。それが今日の聖句である。


エスを信じる信仰によって足の不自由な男は救われた。聖書には、男がイエスを信じる信仰を告白したことは書かれていない。しかし、ペテロの宣言と、ペテロが男の右手を取って立たせたそのときに、男はイエスを信じる信仰を言い表したに違いない。そうでなければ、手を取られても立とうとしなかったはずだ。


何かをもらえると思っていた男は、物質的な満たしではなく、自らの足で歩くことで新しい人生を得ることができた。つまり、信仰によって生まれ変わったと言える。


この男に与えられたように、義母の病気も癒されますように。

パウロの女性観

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ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。


ガラテヤ人への手紙 3:28


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新約聖書で「〇〇人への手紙」と言えば、そのほとんどは、使徒パウロが地域教会の信者に宛てて書いた書簡である。


「ガラテヤ人への手紙」は、AD50年頃に小アジア(現在のトルコ)のガラテヤ地方にあった複数の教会に向けて書かれた。


「コリント人への手紙」は、ギリシア港湾都市コリントに住む信者に向けて書かれた。


いずれもパウロが書いたものであるが、今日の聖句(ガラテヤ)と別の聖句(コリント)を同時に読むと、これが同じ人物が書いたものなのか?と思ってしまう。



今日の聖句で取り上げた、ガラテヤ人への手紙3章28節では「国籍も身分も性別も関係なくみなキリストにあって1つ」とある。


ところが、同じくパウロが書いたコリント人への手紙にはこう書いてある。


女の人は教会では黙っていなさい。彼女たちは語ることを許されていません。律法も言っているように、従いなさい。
(第一コリント14:34)


ガラテヤの聖句を知らずに、コリントの聖句だけを読んでしまうと、パウロは女性軽視のミソジニストではないか?と思ってしまう。


2000年前の状況を現代から見て、男女差別や女性軽視を述べることは難しいと思う。価値観は時代によって変わるし、聖書的価値観さえ時代に左右されるものだ。聖書そのものの解釈でさえ影響を受けるのだから。

 

だから、上掲した2か所のパウロの言葉だけを取り上げて、パウロは女性軽視だとか、聖書は一貫性がないとか述べるのは間違いだと思う。細かい点を丁寧に見ていくと、パウロは女性軽視というよりも、実力主義者だったのはないかと思わせる。

 

ちなみに第一コリント14章は、後世に挿入されたという説もある。



新約聖書に登場するパウロの仲間にアキラとプリスカ夫妻がいる。彼らは天幕(テント)職人という共通の仕事を持っていることで意気投合したことが「使徒の働き」に記されている。


その後、パウロアテネを去ってコリントに行った。そこで、ポントス生まれでアキラという名のユダヤ人と、彼の妻プリスキラに出会った。(中略)パウロは二人のところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした。彼らの職業は天幕作りであった。
使徒18:1-3)


出会いの場面では、夫のアキラ、妻のプリスキラ(プリスカの愛称)の順で記されている。ところが、同じ章の後半になるとそれが逆になる。


パウロは、なおしばらく滞在してから、兄弟たちに別れを告げてシリアへ向けて船で出発した。プリスキラとアキラも同行した。
使徒18:18)


このように、プリスキラの方が先に書かれる。パウロの伝道に同行した夫妻であるが、プリスキラの働きをパウロは大きく評価していたと思われる。次の節もそうだ。


彼は会堂で大胆に語り始めた。それを聞いたプリスキラとアキラは、彼をわきに呼んで、神の道をもっと正確に説明した。
使徒18:26)


また、別の書簡に書かれた夫妻への挨拶を見ても同じであった。

 

キリスト・イエスにある私の同労者、プリスカとアキラによろしく伝えてください。
(ローマ16:3)


プリスカとアキラによろしく。
(第二テモテ4:19)


このようにプリスカの名前がアキラよりも先に書かれているのは、彼女の方が教会において影響力を持っていたためではないかと考えられる。


結局、パウロの女性観はどうだったか分からないが、男女に関係なく実力(聖書的には賜物=gift)を重視していたことは間違いない。


私たちはパウロのことを首尾一貫していないと批判することなく、パウロだって私たちと同じ人間なのだから間違ったことを口にするし、過ちも犯すものだと寛容でありたい。


最後に、第一コリント11章のパウロの言葉で締めくくる。


とはいえ、主にあっては、女は男なしにあるものではなく、男も女なしにあるものではありません。女が男から出たのと同様に、男も女によって生まれるのだからです。しかし、すべては神から出ています。
(第一コリント11:11-12)


私たちは、キリスト・イエスにあってひとつ。